前略
久しぶりに、季雲納言さんのエントリーを拝読しました。記した由、お知らせいただきありがとうございます。東京の暮らしには慣れたでしょうか。もっとも、いまは帰省中とのこと。
さて、一読して感じたのは、やはりうまいなあということ。それから、大学生になられる前に書いていたエッセイとは、(今回のテーマの眼目でもあると思います)、「個」や「孤」の重みが一段違って感じられることです。
表現技法のおさらい
内容に一足とびに入る前に、(特に前半部分に顕著な)表現技法上の美点、美徳をおさらいしておきます。
- 浅草の待ち合わせと、お肉の描写がいい
- 「菜っ葉をゆがき」「肉を揺すって」という表現がことのほか時間感覚を伝えてくれます
それに対して、後半部分は、抽象度が高まっています。
- 「指先にいくつか傷痕があり、それを私はずっとなぞっていました」。掌編小説として読むとしたら(私は自称文芸批評家としてそう読んでいますが)、ひとこと「この傷は何?」と尋ねてほしいところです。でも、季雲納言さんは、そうはことを起こさない。ことの良し悪しではないです。
- 「叶わない恋をする彼の慰みに」。これも、小説として読むなら、「彼」がどんな恋をしているのか、踏み込んでほしいところです。
- 「なぜ彼から触れ合いを求めてくるのかずっと頭がぐるぐるして」。この、頭がぐるぐるして、いいです。こういうのは狙って書けるフレーズではないので(狙ったら立ちどころにあざとくなります)、書けるうちにがんがん攻めていきましょう。
- 「関係が一変したことは、その日の通話で彼から発された『会ってしまったらこうなる気はしてた』」さすが平安古文の嗜みのある方は違うなと思いました(笑)。「テシマッタ」と事態の移ろいを感じるのが古文です。現代にも息づきます。
主題に関して
まるで、変わっていく自分が周囲から少しずつずれ、孤独になっていくような
誰かを好きになり、あるいは別れたりして、帰省するたびに、自分が一枚ずつ脱皮していたことを気付かされる。それは早い段階で、時間感覚のずれ(流れ/あるいは別の時間軸を生きているという自覚)として感知される。
いいなあ。ね、こうなんですよね。だからタイトルが「時間が遅い」なのでしょう。あるいは、東京に戻って「彼」に早く会いたい、でもまだそれには日がある、そのもどかしさが二重写しになっているのかもしれません。
ただし、同時にそう合点してしまうことは、批評家としての危うい野暮であるかもしれません。
自分の周囲だけ時間がゆっくり進むような、下手すれば止まっているようにさえ感じる
これも、ありますよね。恋、それ自体から来る時空の歪みだけでもなさそうな気がします。これは、何なんでしょうね。私にも覚えがあるような気がします。
おまけその1
変わりゆく一方で、私は変わらない季雲納言さんの姿を見出して安心しています。
今、私は帰省と家族旅行をしています。夜は布団に隠れてDMをしていますが
これは孝標女ですな。はっはっは。
おまけその2
(実は本論です)
「いい女になれ、自然といい男が付いてくるものだから」
このご友人の忠告は、季雲納言さんには響かなかったでしょう。このような発想は近代の恋愛観の上にあるものです。近代の土俵に強引に手を引かれたことを直観するから、
「そもそもいい悪いとは何なのか」
だったら、そもそものレベルで問い直しをしたくなる。季雲納言さんはご自身の恋愛体質の特徴を今回のエントリーで2度、それ以前にも、似たようなことをいちど書いていらっしゃった覚えがあります。
今回のエントリーでひときわ現代人の目にはこれは異常事態だと(褒めています)感じられるのが次のフレーズです。
- 「嘘でもいいから好きだと言ってくれる人の慰みものになりたい」
- 「叶わない恋をする彼の慰みに」
慰みものになりたいんですね。慰みものになる恋が、おそらく、季雲納言さんの情動の源にあるらしい。
古文の何を引けばいいか咄嗟に出てきません。また、誤解と危険を承知でいえば、私は、季雲納言さんの、この感じ方が好きです。
そして繰り返し、誤解と危険を承知でいいますが、季雲納言さんはすでに「いい女」たる条件を備えているように僕には見えます。
二人の行く末はいかに?
しかし傷の舐め合いが終わったこと、関係が一変したことは、その日の通話で彼から発された「会ってしまったらこうなる気はしてた」という言葉でわかりました
だれも正面からいわないでしょうが、よくない恋です(断言。はっはっは)。
けれど、疚しさや傷や、耐えきれなさ、それ故の切なさを持ち寄らないような恋は、その変わった先の関係への怯えの伴わないような恋は、ぼそぼそした湯通しをしすぎた肉のようなもの。どうして、人生を豊かにしてくれるでしょうか。
辛い現実が、ここにあります。にゃーん😺😺😺