illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

新潮社のコメントを読む - 北条裕子「美しい顔」に寄せて

新潮社からコメントが出されました。

「群像」8月号、 『美しい顔』に関する告知文掲載に関して | News Headlines | 新潮社

ほぼ同意です。1箇所だけ生暖かいと思います。

ノンフィクション作品が小説執筆時などに参考とされることはこれまでも多々あったでしょうし、これからもあることかと思います。しかしながら、それらノンフィクション作品は、単に事実を羅列しただけのものではありません。その一行一行を埋めるため、足を使い、汗を流して事実を掘り起し、みずからの感性で取り上げるべき事実を切り出し、みずからの表現で懸命に紡いだ、かけがえのない創作物です。

この、「ノンフィクション作品が小説執筆時などに参考とされることはこれまでも多々あったでしょうし、これからもあることかと思います」のところです。ここは続く「しかしながら、」を含めて変に譲歩する必要がありません。その一文を取り外して、続く段落につなげてみます。

ノンフィクション作品は、単に事実を羅列しただけのものではありません。その一行一行を埋めるため、足を使い、汗を流して事実を掘り起し、みずからの感性で取り上げるべき事実を切り出し、みずからの表現で懸命に紡いだ、かけがえのない創作物です。
ノンフィクション作品が様々な創作物の参考となることは、ある意味光栄なことではあります。しかし参考文献として作品巻末などに記したとしても、それを参考にした結果の表現は、元のノンフィクション作品に類似した類のものではなく、それぞれの作家の独自の表現でなされるのがあるべき姿ではないでしょうか。

ね。新潮さんのおっしゃる通りです。

おととい、福田恆存が憑依した私は次のように書きました。

文体や声が確立している書き手ならば、他人の文体は自ずと咀嚼して取り入れることになる。そのようにして取り入れられたものは「わが文体」であります。また、自己が確立しているから他者との境界を明確にする意識の働きが生まれる。このときの、咀嚼に代わる作家作法のひとつが引用です。

dk4130523.hatenablog.com

別に我が意を得たりと思っているのではなく、当たり前のことです。「作家の独自の表現でなされるべき」というのも新潮さんの中の方のお優しさが出ているところであって、そもそも、なんで芥川賞候補作品にこのレベルで問わなければならんのだと(とりわけ読者なら)拳を固めるところ。北条さんは「作家の独自の表現がなっていない」と(少なくとも引用と思しき箇所には)いわれていることは、いくら何でもさすがに伝わると思います。

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新潮子の優しさに水を差す船橋のおれ。

あのね、北条さん。

被災地は撮ってもタダか。被災者は撮ってもタダか。どのように持って帰ってもタダか。この男も、マスコミも、みんなそうだ。みんな金を払え。かわいそうが欲しいなら売ってやる。売ってやるから金を払え。タダで明け渡してもらおうなんぞと考えてくれるな。私にタダで気持ちよくさせてもらおうなんて思ってくれるな。かわいそうにかわいそうにって涙流して気持ちよくなりたいなら家でやれ、自分を慰めたいなら自宅でやれ。それとも家でやるのはおかずが足りないってことですか。

出典:

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf

これが作家の想像力なの? そもそも、被災者でも被災者でなくとも、これは、記していいことなのかな。僕にはただの露悪主義、その中でも格段にレベルの劣るものと思えるのだけれど。311のあと、実際に、こう、思っ/思われてたかな。(まったくなかったという以上には)あっただろうよ。でも、そうでない内心の声も、あったよね。

  1. そこで、立ち止まらないのはなぜ。
  2. そのときに、自分で現地に赴くなり、先行する記録やノンフィクションから、上に引用した箇所へのカウンター、フィードバック、揺り戻しは得なかったのかな。ものを書く人なのに?
  3. 私が前回の記事で触れた「マスターベーション」。その縁語「私にタダで気持ちよくさせてもらおう」「自分を慰めたいなら自宅でやれ」「家でやるのはおかずが足りない」3回も並べる必要ある? 並べる前に立ち止まった? 立ち止まろうとも思わなかった? この表現によって得られるものと損なわれるもののB/Sを付けてみたりしなかったのかな。

dk4130523.hatenablog.com

僕には理解できないことだらけです。

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新潮文庫にはこれまでもずいぶんお世話になってきました。これから、講談社に回らなくなった読書資金が新潮に回ることになります。今後ともよろしくお願いいたします。

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追伸:

テーマによっては、

それぞれの作品を必死に紡いだ著者の努力に思いを馳せていただき、敬意をもって接して頂ければ幸いです。

「それぞれの作品を必死に紡いだ」筆者と同じかよりも先行する、祈りが差し向けられるべき対象がいることもあると思います。批判ではなく、この文脈では新潮子のおっしゃることは十分にわかる。禁欲したのかもしれない。なら、僕がいいます。

被災地は書いてもタダか。被災者は書いてもタダか。どのように持って帰ってもタダか。この女も、マスコミも、

このような写し絵構造を可能にする創意(?)を好意的に論じる評者がいるようにもお見受けしますけれど、繰り返しになりますが、こう思った被災者がいたにせよ、そこにこれだけの挑戦を冒頭数ページ目に込めるのは、北条さんの力量からしてまだ尚早だと思う。このブーメラン芸は、回収がとりわけ難しい種類のものです。なぜなら「なぜものを書くのか」そのこと自体に触れるから。

そしておそらく北條さんは自己陶酔をしているだけに過ぎない。女子高生を演じているから? 単に作家の精神年齢が低いからであって理由にならない。この点は次回以降の僕の「雑読」記事で自ずと触れることになります。