illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

北条裕子「美しい顔」雑読(2)

前回に続いて北条裕子「美しい顔」を雑に読んでいきます。

dk4130523.hatenablog.com

黒い顔のまん丸の目は私のからだを覗いていた。いや、そんなはずはないのだが、シャッターが下ろされるたびに、ぱらり、ぱらりと一枚ずつ服を脱がされていくような気になった。男が私のことだけを撮っているように思った。黒い仮面の下から口元だけが覗いていた。その唇が気持ちよさそうな笑みをたたえていた。私は頭がどうかしてしまったのかもしれない。あまりにも疲れているのだ。不眠のせいだ。わかっている。が、どうしても一つの考えに取り憑かれていった。それは、脱ぐもんなんかもうありはしない身ひとつで逃げてきた私のことだけを男が視ているということだった。身ぐるみはがされ配給された毛布一枚で身を包む私の躰を撮りながら男がマスターベーションしているように思った。

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf

もう、我慢できなくなっています。信じられますか。これ、まだ2ページ目ですよ。震災を、被災を、現地取材を行わずとも想像の力によって批評家の賛辞を浴びる自信と熱意を携え、罪深さを味わったとも豪語なさる方が、早くも「マスターベーション」。大江健三郎「政治少年死す」とそれに向けられた辛辣な評ををこの人は読んだことがないのだろうか。何のイメージも、性的渇望も、生死の交合も、喚起しない。僕の中の開高健が遠くをみながらやさしくワインを啜っています。読む気が起こらないらしい。雨の中を、優しく、釣りに出かける用意を始められました。

開高サン不在の間に、みんなで寄ってたかってリライトコンテストしたらいいと思います。そういう企画の前振りならありです。「脱ぐもんなんかもうありはしない身ひとつ」ねえ…。荒れを描くなら、もう少し、丁寧な言葉遣いのほうが却って旨味が出ると思います。

今回の雑考の締めになりますが脱がされたい/脱ぎたい/マスターベーションしたいのは「男」ではなくて作家の自意識です。本作は全編わりとこれが通奏低音になっています。その点を私はそこそこ問題視しています。踏み込んで申せば、そのような精神のありようが、芥川賞候補に推されて断らなかった甘さに十分に通じていると見ています。

呆れて果て疲れたので今回はここまで。