illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

或文学的態度表明

(1)

盗作を行う側にそれが成り立つ条件にはいくつかあります。モラルの低さとか。けれどそれより先に文体の問題として考えた場合外せない要素がある。それは他人の文体を多少の手直しで受け入れられる程度に、その書き手の文体がまだ確立していないことです。

文体や声が確立している書き手ならば、他人の文体は自ずと咀嚼して取り入れることになる。そのようにして取り入れられたものは「わが文体」であります。また、自己が確立しているから他者との境界を明確にする意識の働きが生まれる。このときの、咀嚼に代わる作家作法のひとつが引用です。

他人の文章を粗雑な手付きで混ぜ込めてしまえる程度の未熟な書き手によるものを、なぜ読まされなければならないのでしょうか。

(2)

企業対応として講談社が明らかにすべきは、今回の行為に関して担当編集者はグルであったのか、語調をやわらかくして申せば、認識、黙認、追認をしていたのかどうかです。そのことを抜きにむやみに強い調子をひけらかすから、あのような威勢、空威張りだけのプレスリリースになります。

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf

過失を認めることと強い調子の間には甚だしい飛躍がある。平たくいえば、ただの脅しではありませんか。それも足元が揺らいでいることにも気づかないで嵩上げをした台座の上からの。

(3)

それだけではありません。

私が(1)(2)に増して心配しているのは、このたびの「美しい顔」なる作品が、その書かれた-読まれた-受け取られた、そのときに、未熟な作家と愚かな編集者の内的動機とはまったく別に、作品として被災者の方々に届くものだろうかということです。もちろん、届くまいという悲しい予期のもとに本稿を書いています。

(4)

結論として、まず、私は講談社の発行物の新刊を今後一切購入致しません。学術文庫にも文芸文庫にもずいぶんとお世話になってきました。今後は古本を渉猟するのみの読書人生になります。これは寂しいことです。しかし、やむを得ません。

次に、とはいえ必要上から、北条裕子さんの「美しい顔」が掲載される号は購入し、読んでみます。これまでにもっぱら検証目的で引用された断片を読んだ限りでは、たとえば私が近年の最高水準と評価する第70回の森敦「月山」や、第74回中上健次「岬」といった、芥川賞最後の午後の曳航群に、到底およばないことは明らかです。

美しい顔という表現がぴたりとはまるのは、私は好きではありませんが、川端や、私の好きな庄野潤三のような作家或いはその静物作品群においてでしょう。レクイエムでしたら野坂の火垂るも好適かもしれません。

作家の文学的野心が(それが一滴たりとても)311を題材に選ばせたのだとしたら、被災者のひとりとして私はそのことを北条さんの美しいお顔立ちとともに、よくよく銘じて生きていくつもりです。