illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

今日は4月1日です。何を書いてもいいでしょう。中島みゆきの話をします。「僕にとっての」中島みゆきです。中島みゆき一般ではない。

初めて買ったのは85年のmiss M.でした。アルバムCDの買い方も知らなかった。CRT栃木放送「新井清の星空ベストテン」という番組があって、そこでエンディング・リクエストで中島みゆきの「時代」だったと思う、魂を持っていかれて、ちょうど、その頃わが家にCDプレーヤーが入ったこともあって使ってみたくてたまらない。渡辺美里と、ビリー・ジョエルと、井上陽水と、南野陽子と、ナット・キング・コールを。

そしてそれらに次いで、miss M.を買い求めた。買い方を知らなかったというのは、その後に出たベスト版(中島みゆき THE BEST)、これを知って本当はこっちがほしかったと悔やんだ(悔やまなかった。miss M.はよかった)、つまり、Singleを集めたものSinglesばかりが、アルバムでない、なんてことは当時読み始めたばかりの「明星」や「平凡」には書いてなかった。シングルとカップリングとアルバム収録曲の違いもわからなかった。どきどきしながら千円札を握って新星堂オリオン通り店に行って「な」の一角から収録曲もよく確かめもせずに、出たばかりで複数枚置かれていたmiss M.が「これを買っておけばよさそうだ」と一人合点してレジまで持っていった。

よかった。メタルテープにダビングしてずっと聴いてた。だからおれの感受性のある部分は、渡辺美里(と、岡村靖幸のものであることはずっと後になって知る)のLoving Youと、中島みゆきの孤独の肖像と、ショウ・タイムと、ああ、いま気づいた、おれの単独者好きはこのころに端を発しているのだな。口ずさみながら自転車をこいで学校に通って、でも一方で河合その子に入れあげて。孤独の肖像も後藤次利だったか。許しがたい。

したっくれ(栃木弁「まあ、そうして」の意)、ちょうど冬(86年1月)には、そう、タイガース21年振り優勝のオフだった、THE BESTが出る、わかれうた。研ナオコの「かもめはかもめ」が中島みゆきだったと知ったのもそのころで、編曲の若草恵はわかくさ・めぐみだとずっと思ってて、かもめはかもめ、いいよねえ。あれと「この空を飛べたら」、たまにやさぐれて(しょっちゅうだけど)船橋港まで歩いていく、ふと、どっちかを歌ってる。80年代後半、中島みゆきの活動期においても、おれにとっても、いちばんいいときに、時代、杏村、加藤優(世情)、わかれうた、あたいの夏休み(これも後藤次利か)、白鳥の歌が聴こえる、オールナイトニッポンなあ、シーサイド・コーポラス、そういえば、大学生のときにいちどめの虎への変身と国外逃亡をして、ベトナムの港で魚醤の匂いにあおられながら、シーサイド・コーポラス口ずさんでた。なんど歌っても途中から「杏村から」に変わっちまう。「シーサイド・コーポラス 小ねずみ 駆け抜ける きのう おまえの 誕生日だったよと」。あれ? おっかしいなあ、いよいよおれもおしまいかって、確かめるのに日本に帰ってきた。

それから、大学院に入って(潜り込んで)(96)、おれは芥子粒、太宰のトカトントンでいうごまのひとつまみなのかと人類史に対する圧倒的な敗北感に後頭部からバットで襲われ、だめもとは先刻承知、せめて中くらいの幹に爪痕を残したらどないやと、だがしかし! どうしてそんなことをするのか。あれはたしか20数年前の、雨降る夜に、坂口安吾をめくっていたそのとき、それまで、おれにとって one of them の上位くらいでしかなかったはずの with が、否(杏)、無意識下に、答えを探っていたのだろう、でなければ、巡り合うはずがない。なぜ巡り合うのか。おれたちは何も知らない。けれど、だからって、そうだろう? とはおれは問わないんだ。忘れちまった、忘れたふりをしているだけで、知っていたはずなんだ。なあ、はる君。

JASRAQ(CではなくQのほうがかわいくないか)バッチかかってこい。

僕のことばは意味をなさない
まるで遠い砂漠を旅してるみたいだね
ドアのあかないガラスの城で

みんな戦争の仕度を続けてる
旅をすること自体おりようとは思わない
手帳にはいつも旅立ちとメモしてある
けれど
with…そのあとへ君の名を綴っていいか
with…淋しさと虚しさと疑いとのかわりに
with…そのあとへ君の名を綴っていいか
with…淋しさと虚しさと疑いとのかわりに with…
生まれる前に僕は夢みた 誰が僕と寒さを分かちあってゆくだろう
時の流れは僕に教えた
みんな自分のことで
忙しいと 誰だって旅くらいひとりでもできるさ
でも、ひとりきり泣けても
ひとりきり笑うことはできない
けれど

02年に、おれはよよん君のことを知り、03年に血液グループ先生に面会を申し入れ、お会いして、ひとしきり事情聴取を行った。その中で、ひとりきり笑うことはむずかしい。けれど、そのひとりがいてくれる、いてくれたことによって、僕たち、私たち、おれたちは笑うことができる、そんなこともある、その可能性に賭けてみたいと、なぜ、よちよち歩きでもいまこうして生きていられるのかといえば、と、そこで血液グループ先生は言葉を呑んだ。

*

長い短い夜が明ける。夜が明けたらおれは船橋競馬場まで用を足しに行く。申し添えておくが放尿ではない。どちらかといえば放牧に近い。魂の。吉井玲と、ちょうどたまたま(きんたまではない)、同じ時期に白血病にかかったよよん君がお母様にあるとき漏らした。「同じ病気でも、どうして、タレント、有名人だと、採り上げられて話題になるのかな。もっとほかに、たくさんいるのに」「僕も吉井さんみたいに寛解するのかな。もし、そうなれたら」

「そうなれたら?」と、血液グループを名乗る(そう問われても否定しない)小柄な人は、取材中初めてといってもいいくらい、僕の目を覗き込んだ。昭和記念公園近く。秋。喫茶店で、われわれはミルクティーとレモンティーを頼んでいた。