illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

豚角煮ちまきを仕込む日曜日(575)

「角煮のちまき風のおむすび」を作っている。角煮を焼く前の漬け汁仕込みに1時間かかるそうだから、その間、うれしい気持ちが掌からこぼれないうちに記しておきたい。

小説を読む喜びとは一体、何であろうか諸君。

私は読者に投げかける振りをして対話を好まないw

小説を読む喜びは連載を待つことである。キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!である。贔屓の作家がわんわん吠える読者の前に1週間後にちゃんと続きを示してくれることである。変わらぬ筆致で。意外性に富んだ続きで。

諸君昨今そのような新聞あるいはウェブ連載を見たことがあるか。

私にはない。実にくだらない話ばかりだ。正直、二度と読むものかと思う連載にしか出会ったことがない。私だけではなかった。状況は少し異なるが秋山駿が藤沢周平蝉しぐれ」に言及して似たようなことを記している。もちろん藤沢「蝉しぐれ」は例外中の例外という論調でだ。時代小説を読む楽しさを思い出したと秋山は喜びを隠さない。

同様に、私は蘇ったのだ。

たんぽぽさんの「スナック花水木」である。

tanpopotanpopo.hatenablog.com

実に美味い。旨い。上手い。

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韻文で鍛えた、彫刻刀を思わせる語順と描写線

もう、はらはらする。主人公の「私」は、おおむね自分のこと以外に関心が薄い。だいたい、状況に押されて、いつも後になってから気づく。それは、作者たんぽぽさんのお人柄に由来するのだろうか? 否、私小説での書き手と「私」の重なりなどというテーマはもう飽き飽きしているので論じないが、否(二度目だ。うむ)、やっぱりそこに戻って考えてみたくなる魅力引力がこの作品には、ある。「たんぽぽさん、若いころ、こうだったのかな? ぷぷぷ」って思うでしょう? 思わない? あれ?

で、まあ、街に出てきたばかりのころの自分を創作に投影するセンチメンタル・ジャーニーは、ひとつの類型ではある。だがしかし、だ。ありきたりにしないのが、たんぽぽさんの和歌/短歌の素養だと僕は思う(「私」で押すのが面倒くさくなってきたw)。「そっけない」と、「過不足ない」の、ぎりぎりの線を作者はお攻めになる。(#・∀・)キー と、俺は思うわけだ。ユキちゃん、もうちょっと、かゆいとこ別なんだけど、あーそこじゃないんだ、そこなんだけど、そこまで来たらもうちょい、あーそこそこ、ちゃうねんで。

「花水木」という(あるいは、きっと、実在なのだろうけれど)、稜線で読ませる字形でしょう。すうっと、削って、流れていく。後に、味わいと、心持ちが残る。

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俺は、気づいていた(つもり)。しかしまさか

まさかそこまで一息に進ませるか! 男の読み手は甘いと、つくづく思い知らされました。トホホ でもこれなんだよね。予定調和しない。和歌/短歌でも、俳句でも、月並みを嫌うというのがある。あるいは、書き手のお人柄が(以下自粛)w それがその、ユキちゃんの観察眼、いい意味で傍観者的な人生観、立ち位置と相俟って、読者はどこまで運ばれていってしまうのか、予断を許さない。それでいて、スナックの内装や、常連さんの顔立ち、声色を、想像させるだけに十分な話の運びを持っている。

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速報。いままさに論考を閉じようとして入ってきた。

(また、楽しみが増えたw)

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俺は小説も、評論も、諦めないでいてよかった。黄金頭さんにシンパシーを寄せるときと同じようなニュアンスで、たんぽぽさんがメジャー・シーンに出るのには、また別のロジックが要るのだと思う。優れた編集さんがつくとか、小説でも二次選考や佳作をお取りになるとか。

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でね、それだからこそ、急いで書いたんだ。

小説を読む、もうひとつの楽しみというのがあるんだけど、それは何だと思う?

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わい曰く「オープン戦」。

昨年2017年春のオープン戦でタイガースの秋山がべらぼうによかった。評論家も口々に「秋山はいい」「今年の目玉は秋山です」っていってた。

たんぽぽさんは、「来る」よ。私小説は、大変だと思うんだ。運不運や時代(古語で「ときめく」=時の恩寵を受ける)というのが、とりわけ色濃く出る分野。

でも、鍛えられ、選ばれた言葉やストーリーの運び、語り手≒「私」の(エゴイスティックなところは多少あるにしたって。暮らしや将来の不安とないまぜになった、そこが、街に出たての最大の魅力のひとつ)心優しさ、というのは、これは変わらない種類のもの。結局のところ、読者が支持するのはそこです。