illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

足音のような話

わるいタンポポさんのほうの登場人物(「私」)の特徴として印象的なのは、おおむね、だいたい黙っていく。話したいことがあって話しているのだけれど、だれか、よりことばの芯の強い人の声に、押されて、ちょうど、「IQ」というゲームが昔あった。あのブロックを真正面から持たされて、ぐっと押されて、へこんだまま持ちこたえて、さりとて痛いとか辛いじゃなしに、声を聞き、いいたいことはあるのだけれど、やっぱりずっともの静かにしている。

tanpopotanpopo.hatenablog.com

ユキちゃん(「私」)は、聞く側に回っていく。意地悪をいえば、ユキちゃんは何処かしら自分の内面のほうがより大切であるか、外の世界よりも重いかで、

ふたりにまとわりつかれ鼻の下を伸ばす社長を見て、私は初めてクスッと笑った。

源氏名は、どうするかな?本当の名前でもいいんだけど」

名前から会社にバレたら大変だと思った私は、咄嗟に「ユキで」と言った。

「あー、いい感じね。北国生まれのユキちゃん。」

私は心底ホッとして、店を後にした。

2か月なんてきっと、あっという間に終わる。頑張ろう。例え少しぐらい嫌な思いをしたとしても、お金のためだもの。

お金、お金…

こういう観察を行って、瞬時の判断で自分をきちんと守り仰せて、会話をつながないで(ここ点々打って)、アパートへ帰って行く。それが別段、殊更な感じもなく、自然で、そんな、エゴイストさん。あるいは、若い時分に、少なからぬ人が通るだろう、蛹(さなぎ)の(ような)暮らし。

翌朝、目を覚ました時には会社の始業時間はとうに過ぎていて、私は「具合が悪いから休む」と、会社に電話するより仕方なかった。

会社生活、あるいは社会人生活とよばれるものよりも、何かしら、このユキちゃんは、もっと重力の大きな何かに押されたり引かれたりしている。

こういう感じ方を、柔らかいエンボス画のように、稜線を引ける書き手は、当代まず希少な価値がある。タンポポさん自身、何か手応えのような、満ち足りるところがあったのだろうと、黙って想像し、噛み締めていたい。

私小説や随筆でお家芸の高みに持ってくる、至難の先に見える山並み、その稜線を、綿毛はおそらく、たまにちらっと、見る(いつもの←がないからねw)、その「たまさか」がいつやって来るか。書いた当人にだって、書き終えて、ふうっと息を吐いて見るまで、わかるものではないだろう。

*

きょう、長い長い、不毛な経営審議を終えて、総武線快速でやけに体つきのいい大学生に背を押されながら、手応えが消えないうちに家に着いてこのことを書こうと、言葉を選びながら、11時過ぎ、船橋のコンクリートを早足に押し戻すように、刻んで来、今、夜半に至ろうとしている。とてもいいものを読んだ。