こんばんは、ダウニング鎌倉橋です。
昨晩の続きです。今朝方、神田で朝蕎麦を頂きながら、シャイニングさん(id:shiningmaru) と大杉漣「変態家族 兄貴の嫁さん」の話をしました。シャイニングさんはご自身の肩書や表向きの顔からは味のない発言をなさいますが、不意を打ってみたところ大変に面白かった。ええやつやんかw
広告マンの下りはジョークですが、見てますw!ありがとうございます!
— シャイニング丸の内 (@shimaru365) 2018年2月21日
ちょっと居住まいを正して、彼女、シャイニングさんにも関心のあるだろうところを少しだけ真面目に書いてみようと思います。
古文漢文はビジネスに役立つか? その1
経験的には、大いに役立ちます。まず、商談で使えるか、案件獲得出来るかどうかの話をしましょうか。
僕の場合の直接体験の相手は英国人、中国人です。どちらでも、ディナーで、相手国の古典を読んだことがあるというアピールをします。サービスです。ありきたりですが、シェイクスピア、モンティ・パイソン、アーサー王物語、最近ではカズオ・イシグロ、アガサ・クリスティ、チャーチル、サッチャーといった話を披露します。中国の方になら、三国志演義、戦国策、太平天国、魯迅、郭沫若(僕は船橋在住で沿線の市川に彼はゆかりがある)、朱子学と陽明学、あたりを。中国語は話せないので英語ですが。
そうすると「よく知っているね」とお世辞を頂戴します。「日本のことも話してよ」と、相手も僕へのサービスでリクエストしてくれます。ここで、相手国(英国や中国)への一種の造詣(自分でいうかねしかしw)が、付け焼き刃かどうか量られるわけです。率直に、経営トップ相手がほとんどです。彼らは、取引先の営業部長クラスが、モンティ・パイソンやらサッカーやら光栄のゲームで中国史を学んだだとか、吉川三国志やら、を切り出してくる光景をいやというほどご覧になっています。僕の経験では、彼らが聞きたいのは、その一歩先です。せっかくだから、日本のことを知りたい。京都、お城、千代田区ならなぜ甲冑や刀剣を扱う店が多いのか、そして目の前の営業部長が、自国の基礎教養、歴史、をどれだけ尊重して人格のいち要素としているか、あっさり見抜いてくる。
経験的に、日本の古典で受けがいいのは、世界的なネームバリューでいえば源氏物語です。英語で話して通じがいいのが、竹取物語。枕草子などいわゆる三大随筆(枕、徒然、方丈記)は、まずもって(英語での)説明が難しい。仏教に触れざるを得ない。源氏だってそうなんだけれど、紫式部には申し訳ない、色男、王室宮廷のスキャンダル然として、ダイジェストを話す。英国の方は食いつきがよかった印象が強くあります。中国の方には、遣隋使遣唐使の時代から「ずっとお世話になってきました」の態をとる(半分以上本心だけどね)。ちなみに、枕草子でいえば(僕自身あんまりやらないんだけど)、香炉峰から白居易につなぐ話法は、ありだと思います。
反面、近代の話は(僕の学問上の専門ではあるのだけれど)やらないほうがいい。理由はいわずもがな。
偉そうに書きましたが、要は、古文漢文はディナーの場繋ぎです。自宅にワインセラーが云々、をやる輩も(世界中に)います。僕は嫌いでね。率直にいえば、日本のビジネスマンに、(珍しく)英語でThe Tale of Genjiを熱演するおもしろいのがいた、温泉も教えてくれた、あいつは一体何者なんだ、と印象に残ってくれたらいい。みなさん、古文漢文やらないでしょう? それが却って、商機なんです。
契約単位は、年間数千万円から数十億円です。小さいっちゃ小さいんですけれど、その種まきが、「次」を生むのは、シャイニングさんもよくご存知でしょう。
古文漢文はビジネスに役立つか? その2
アトミックな思考、という点で役に立ちます。本当は、現代文の前に古文、実践より先に原理的思考、つまり正確な品詞分解が、あるべきなんです。品詞分解は、数学の自然数、整数論、四則演算みたいなものです。シャイニングさんは、国語のいい先生に巡り合わなかったのではないですか。僕はすばらしい先生に巡り合った。
話を戻して、騙されたとお思いになり、試しに品詞分解、徹底して、やってみたらよろしいのではないでしょうか。やればいいんじゃない?w 「いいんじゃない」の「じゃ」は文法的には何と説明がつくのだろう? とか。最難関は「どうも」です。これはむつかしい。わけがわからない。「どうも」は、品詞分解できるけれど(しない)、そこからこんにち私たちが使う(遣いまくる)「どうも」たる意味合い、ニュアンスは生まれて来やしない。
また縒れた。話を戻します。そうして、日本語の感性がある程度、研ぎ澄まされたら、ビジネス文書なんてものは非常に狭い語彙、狭い経典、部分社会の法理で済ませていることに気づきます。楽勝です。
で、嫌気がさす(笑)。
そうしたら、万葉集や、岩波古語辞典を紐解き、豊かさに触れたらいいです。そこには、変わらない姿があります。「和泉式部日記」なんて、現代の商社女性社員が給湯室で行う情報交換の豊穣さの原点です。いがらしゆみこの「マンガ和泉式部日記」なんて、別にシャイニングさんだけを引き合いに出すのではないけれど、ハマるんじゃないかなあ。めっさ面白い(笑)。そこから、原典、とはいわないけれど、明治書院でも何でもいい、20年くらい修練を積むことにより、古文のまま、ある日突然、和泉式部の声が聞こえてきたりします。
あるいは、女性社員の噂話を耳にして、和泉式部日記や紫式部日記を連想するようになる。何せ、和泉式部紫式部といったら筋金入りの性悪だから(親愛を込めて)、「1,000年経っても変わらないのか」と、しみじみと思い入ること請け合い。また、平家物語を読めば、男だって変わっちゃいない。吉田兼好なんてまるでブロガーじゃないか。とかね。
*
そんなわけで、まあ、古文漢文なんてそもそも役に立たないさ。立つはずがない。それでいいんだ。ただね、彼ら彼女たち古文漢文の側は、僕らに何ひとつ求めていない。それを愛と取るかどうかじゃないか、という点には議論の余地が(多分に)残るでしょう。