すごくよくて。
これを読んだ私の感想は、単純明快だった。
言うまでもなく、私は自分のために詠んでいる、
その歌が誰にも見向きもされない、ただの31文字の羅列に過ぎないのか、それとも何かしら響くものがあるのか知りたいという理由で投稿する。
投稿先に新聞を選ぶのは、母のためだ。
すんません、まったくそうは思っていませんでした。違うと思ってた。お母様には通じないことを先刻承知で、歌っていたとばかり。俺の読書遍歴、3万幾千冊はまったくの無駄であった。そのことが、よーく、判る。しかして、刮目した目でたんぽぽさんのこれまでの記事を読み返すと、うんうんと/頷くばかり/冬の月かな。
「こないだのおめさんの歌、あれはどういう意味だや?わがんながった。おれは呆けたんだべか?」
すごいよねえ。ぜったいにさ、たんぽぽさんの中の人は増田みず子か誰かなんだよ。
私はつい最近まで、自分の人生が本当に糞みたいだと思っていた。
(ことだまさんに配慮して、引用一部省いたで。)これも、まるで判らなかった。読む限り、そうは思っていなかった。
けれども今年、たて続けに身近な人達の人生が激変するのを目の当たりにし、人生なんて解ったような気がしていたが最後の最後まで解らないものだと知った。
うむ。うん。うーむ(深い諦念)。
どうしてなんだろう。たんぽぽさん、これだけの才能と、努力と、引き出されてくる歌と、散文に恵まれて、そうしていながら、いや、だからこそなのかな、人生不可解やねんなあ。
とは言え私は所詮、そこらへんにある雑草の一粒の種だから、大輪のひまわりにはなれない。
なれないけれど、雑草の一生にだってきらりと光る雫がある。
その雫を掬いとるようにして私は、私のために私の歌を詠む。
わいが、ちょいとばかし、ほのめかしてみるすな。
わいは、最近ようやくわかりかけてきたねんけどな、本を、歌を、ぎょうさん読むことの意味ちゅうのは、あれは墓参りやねん。人文は役に立てへん。せやかて、その、役に立たなさの内に、やっぱり、わいらみたいな業の深い人種は、物語を紡ごうとしてしまうねん。出来た物語は、せっかくやから(捨つるのはさすがに忍びないねんな)、お花さんと一緒に、お墓に供えようとするわね。
供えたお花に、雨が落ち、虹が光る。「きらッ」そんとき、わいは、わいの立場で言えば、お墓の前には居らん。踵を返して東京行きの新幹線に乗るんや。
せやから、雫を目にすることは、ない。たんぽぽさんは、そんときに、居ってくれると、そう言うてくれてはるねんな。
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お母様の御長命と、たんぽぽはんの御歌の精進を、祈らせて頂きます。カーカー