illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

ぼくちゃん貢ぐ君!

これまでトマトジュースやら何やら健康志向品が多かったので、今回その点を反省してみました(笑)。なんたる我がおしつけがましさよ。たまには、ぱーっとね。

goldhead.hatenablog.com

そうしたところ、ありがたくも約1,200字を書いて下さった。おもしろい。のりにのっていらっしゃるw

1,200字といふのは、断って措きますが、上のカープびいき記事のことです。

以下は、もっともっともーっと手が込んでいる。

kakuyomu.jp

すばらしい。何時幾度(いついくど)読み返してみても何かしらの発見がございます。

圧倒的叙情、淡い立体感、いつのまにか増えている続編、そして、わいせつ石こうの村を想像力の中で持ちこたえるのは、これはおそらく、かなりしんどい作業でしょうね。

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私も今回ある物語を書き終えて、つくづくその「しんどさ」「楽しさ」を味わうことができました。実は、書く支えになった(リファレンス)の1つが、「わいせつ石こうの村」でした。ありがとうございました。この御恩、屹度忘れません。

そして、僕は、到底、及ばない。そのことを改めて悟りました。いつも読んでそうするように、感嘆して、口をあんぐりして、それから、黄金頭さんの、どうやら不遇らしい生に思いを馳せてみました。

(リンクは貼りません。)

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例えば、このようなときに、創作に対して、批評が立ち上る、僕の側からいえば、(もちろん、いい意味でのですよ。先日、批評と批判がうんたらだとか一部で話題になっていたようですが、答えは昔っからある程度決まってます。創作者自身や批評家のその作品の「生」を更新するのが批評です。これはかなり有力な説だ。射程は文芸批評だけぢやないぜ。例えば、柄谷行人を読むといい。その)批評家の資質なんだなあ俺はと、しかしここはひとつ創作者の生を更新するお手伝いをしようと、わいせつ石こうの村がもう一話生まれるかもしれないぞと目論んだんですね。ふっふっふ。

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ちなみに、すぐれた批評家、編集者はこうやって創作者をうまいことだまくらかそうとする生き物なので、お気をつけくださいまし。

黄金頭さんは、そのままで。どうか安心なさって。私はそこまで悪(ワル)じゃない(笑)。

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「恵み」というのは、古来、天が地人に対する方向性で用いるのが筋です。

恵みの雨。MEGMILK

「お」は、その動作主体、恵むを行うSubjectへの敬意です。恵む実体行為は、上から下のベクトルだから下から見れば「下さい」「下さる」が自然な対になります。

しかし創作者は本来「天」の側です。そのことをご自覚ない、或いはご自覚なさ使(し)めているもうじき四半世紀に及ばんとする社会状況、ひょっとしたら、先生の生き難さは、そこにもあるのかしら。

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「恵む」の動作対が、貢ぐ、でしょう。語源は、まだ大野晋を読み切っていないので、そのうち。しかし、私はいくらでも貢ぎますぜ。ぐへへへ(真似をしてみた)。だめでせう? これが批評家の口真似のいけないところ。

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ご自愛なさって、長生きしてくださいね。人は天に貢物をするときには、神官を通じて行うのが礼法です。神官も、巫女さんも、きっと、黄金頭さんの周りには、たくさん居(をは)す筈です。荒ぶる天よ文学よ、どうか分かりやすい兆しを、できるだけ、その、ちょっと、「ああ俺はもうだめかもしれない」ってうーんと手前で、どうかお願いしますw

 

(古え、神祇官は天気予報官でもありました。)

(あれ? そういや俺、なんでこんなタイトル付けたんだっけ?w)

 

2017年8月吉日

船橋海神 拝

 

追伸:来年はタイガース優勝の番です。流石にまだ、カープかな? また、忘れたころにお便りします。