illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

取材ロボットができれば楽でいいね

ずいぶんと新聞に信を置いているんだなというのが正直なところ。

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いつもおちょくるようなコメントばかりしていて恐縮なので今日は(少々)まじめに。昼間の仕事、つまりある意味プロの考え方を、職場にばれない範囲で記す。骨子とさわりだけね。

テクノロジーとワークスタイル(および雇用)を分けて考える必要がある。

テクノロジーでは、ある程度まではAIが記者仕事を代替するのは可能だろう。ある程度とは、定型に、定量データを流し込む処理のことだ。IR、プレスリリース、市場予測の一部では、すでに行われている。囲みの訃報なんかは、形が決まっているし、人手をかける意味が低そうだ。文体や個性を持つようになったら脅威だが、その兆しはまだ見えない。

ワークスタイル(および雇用)は、テクノロジーがすべてを決めるものではない。

組織意思が決める。一般に、テクノロジー採用の最も有力な梃子になるのは、投資対効果。平たくいえば、新聞社が、AIを採用すれば年間何人の記者の人件費を削減できるかを考え、効果ありとなれば採用検討までは行うだろう。AI記者ごときで売上の伸びは期待しにくい。その上で、実際に採用するかどうかは、また別の話。

定量と定性を分けて考える。

定量部分は、AIというか、データ処理。その原型は差し込み(バリアブル)。バリアブルは、すでに行われている。定性部分は、これは日本語形態素解析の実用化がどこまで進んでいるか詳しくない(専門外な)のでコメントは控える。ただ、意見、推論、予測、価値判断は、多種多様な前提条件と、直観によるところが大きいので、AIに書かせるのは個人的にはまだ先だろうと思う。

新しい(新しくもないか)記者の形はどのようなものになりそうか。

プリプロセス(前処理)をAIが行い、記者はそれを自然な日本語に推敲し、加えて、意見、推論、予測、価値判断を行う。取材は、残る。EDIで得られる部分は氷山の一角だからだ。足と顔で稼ぐ(現場に出向いて人と会って話す、ものを観察する)部分は、まあなくならない。取材ロボットができれば楽でいいね。

報道の民主化が職業の再定義を推し進める。

プロの記者とハイアマチュアの記者の境目が薄れていく方向に進むと思う。その意味では、記者という職業はなくならない。自称記者が増える。もう十分に多いか。プロの側では、旗幟鮮明にするという名目で、次で話す宗教化が進みそうだ。

残る新聞社はどのような特徴を持つか。

もっぱら意見、推論、予測、価値判断を供給し、一定の囲い込みを達成している新聞社は、残る。具体的には、聖教新聞と、赤旗。および、各社の聖教新聞的、赤旗的な部分(産経)。AIには「大勝利」というフレーズは書けても、効果的な「大勝利」の使い方がわかるかとなると、微妙。マーケットデータをもっぱら供給する業界紙的なものと、これら宗教紙的なものの二股に、ますます分かれていくだろう。あとほかには、定量と広告を際立たせたもの。BCNとかね。

新聞の存続期間はどれくらいか。

記者という職業、新聞社(メジャー紙)が、AIによって存続が揺らぐまでの話になるかというと、ならない。50年くらい大丈夫じゃないか。ただその理由は、id:zorazora 氏が述べているものとはだいぶ違う。現代日本の新聞の市場占有の主要な力学は、読み手のニーズに加えて、押し紙が大きい。読み手ニーズの実需までは、発行部数は下がろうとし、供給側はあの手この手で守ろうとする。力関係がそうなっているので仕方ない。その力学をどう見るか。本来は、発行部数の減少グラフを描いて予測曲線を引く必要があるが、金もらってないのでそこまではやらん。

補遺をいくつか。

  • 正確性の担保:理想を言えば、IoTセンサーがあらゆるものに取り付けられて、定量データは人手を介さないのがいい。
  • 正しい記事:正しいとは何ぞや。定性部分に、純粋な客観性は存在しない。
  • 国語の授業で新聞:実に多様な、それぞれに偏った新聞があることを知ることには意味がある。1紙では足りない。それから、感想(内面の告白)を制度化すると、そこには色がつく。新聞社がそれでいいのかな。
  • 日本は、新聞社の数が多すぎる。その中で、専門紙、業界紙が残ってくれればいい。
  • 俺なら、定量部分は、オープン化してくれれば自分で集めて、勝手に判断する。定性部分は、専門の内容なら好きに考える。専門外なら、まずウェブから。1日1回か、朝夕2回の紙は、遅すぎる。電子版も、まずははてなを見てから、かな(笑)。

以上。

休憩の20分くらいで適当に書いた。われながら凡庸な論旨で情けない。たたき台、風呂敷の1枚として、この辺りからと思ってくれれば幸甚。それにしても、なんという殺風景な文章。俺よ、恥を知れ。

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これは、おもしろい。2116年、2216年の書誌学者のために、いまの新聞を残すというアイディアなら、まあ頷ける。そういえば、俺は子供のころから縮刷版が好きだった。