illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

お前ら X DAY やめて差し上げてね

最近、よく(といっても、ねこちゃんのお世話の合間程度にだけれど)中野重治を読み返しています。

中野重治についての文学史的な復習は、こちら。

中野重治 - Wikipedia

著作から中野重治の全体像をなぞりたいという昨今めずらしい方には、3冊、お勧めします。

中野重治 (新潮日本文学アルバム)

中野重治 (新潮日本文学アルバム)

 

 

 

斎藤茂吉ノート (講談社文芸文庫)

斎藤茂吉ノート (講談社文芸文庫)

 

中野重治、いいですよ。大変によい。僕が35歳を過ぎてから、妙に気になる存在になりました。上の3冊に直接的に重なるのだけれど、未読の方は「五勺の酒」から入るといいでしょう。この中野重治との距離の近さを感じさせてくれることになった1冊が、こちらです。

昭和精神史 戦後篇 (文春文庫)

昭和精神史 戦後篇 (文春文庫)

 

本題に入るね。まず、中野重治ってどんなおもろいお爺ちゃんかというと、あえて現代的な比喩でいえば、福井藤島高校から金沢大学に進んだのち東大独文に転じます。生まれは先の陛下とほぼ同年の1902年。根っこのところにある資質は詩人なんだけど、東大でわるいお友達にそそのかされてSEALDsみたいなのに入っちゃった。以降、ばりばりの左翼です。途中、農家のお父ちゃんに「やめたらどないや」いわれるんだけど「ごめん父ちゃん。わいやっぱり革命と文学を目指したいと思うのや」いうて、親父も「そうか」いうて。

戦後は共産党から参院全国区で議員さんになったりして。でも路線対立で共産党から後ろ指さされたりします。高校時代には試験で全国1位をとったりして。お百姓さんの子に生まれ、中央に引き寄せられていくんだけど、時代の洗礼を受けて左翼がかって、戦争を挟んで転向もして、再び共産党に戻って議員さんにもなって郷土の誇りだったりするんだけど。だけど、「だけど」ってついてまわる人生です。俺、経歴を知らずに「斉藤茂吉ノオト」と詩集(室生犀星経由で)と「村の話」「五勺の酒」…と入って読んできたんだけど、この人は教条主義的な左翼なんかじゃなくて、感性の基底は農本主義の国士ではないかしらんと、ずっと思ってきた。それは、とりわけ次の箇所の印象が強いからです。あの時代はインテリならだれもがマルクス主義を通るんです。頭が図抜けていると、共産党までは自動エスカレーター。でも、思わぬところで「地」が出る。

そこで甲高い早くちで「家は焼けなかったの」「教科書はあるの」と、返事と無関係でつぎつぎに始めて行つた。きかれた女学生は、それも一年生か二年生で、ハンケチで目をおさへたまま返事できるどころではない。そこでついてゐる教師が――また具合よく必ずゐるのだ――肘でつついて何か耳打ちをするが、肝腎の天皇はそのときは反対側で「家は焼けなかったの」「教科書はあるの」とやつてゐるのだからトンチンカンな場面になる。さうして、帽子をかぶつたと思へば取り、かぶつたと思へば取り、しかしどうすることができよう、移動する天皇は一歩ごとに挨拶すべき相手を見だすのだ。(中略)歯がゆさ、保護したいといふ気持ちが僕をとらへた。もういい、もういい。手をふつて止めさして、僕は人目から隠してしまひたかつた。暗いベンチの上で、僕の尻がひとりでに浮きあがりさうだつた。そのときだ。二階左側席から男の声で大笑ひがおこつた。(中略)二十前後から三十までの男の声で、十二、三人から二十人ぐらゐの人間がゐてそれがうわははと笑つてゐる。言ひやうなく僕は憂鬱になつた。なるほど天皇の仕草はをかしい。笑止千万だ。だから笑ふのはいい。しかしをかしさうに笑へ。快活の影もささぬ、げらげらツといふダルな笑ひ。微塵よろこびのない、いつさう微塵自嘲のない笑ひ。僕はほんたうに情けなかつた。日本人の駄目さが絶望的に自分で感じられた。まつたく張りといふことのない汚なさ。道徳的インポテンツ。反吐を吐きさうになつて僕は小屋を出て帰つた。

中野重治「五寸の酒」。全集を参照しつつ、引用はハンディな桶谷秀明『昭和精神史戦後篇』P.535によった。

戦後、昭和天皇は各地を行幸なさいます。当初、行く先々でかなりの大声で饒舌に男衆女衆にお声をかけられたらしい。「どうだ、獲れたか」「うんと獲れましたよ」「大漁だね」という千葉行幸(1946.6)のやり取りなどは、昭和史クラスタでは知られていることと思います。(ちなみにそれがやがて、例の「あ、そう」に変わっていくのね。)

話を戻して、上の引用は共産党員の中野が1947年に書いたものです。面白いなあと常々思っていて。中野の地滑り的な転向は、こっちだよなと思ってきました。共産党員が人道的な見地から陛下の保護を夢想する(!)。笑う聴衆に共産党員が内心で罵声を浴びせる(!)。

まあ、イデオロギーに片手を掛けた話はこれくらいにしましょう。

父君の行幸の際、明仁陛下は13歳から14歳。多感なころだったとお見受けします。天皇像の一端が、形成されたかもしれないね。

*

3月16日のことを覚えていますか。

東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば - Wikipedia

僕の実家は震度6弱の隠れ激震地区でした。11日の夜に、僕は祖父母から聞いていた空襲の風景を重ねて街の様子を見ていました。印象的だったのは、和装で、高価な装飾品を急ぎ身に着け、同時に背には毛布のようなものを背負い、手には大きなトラベルケースを引いて、駅のほうに歩いていく女性の姿です。電気が止まっていましたから、駅まで幹線道路を10数キロ、行列をなしているその中を、あでやかな着物が夕日に照らされている。見たことのない光景でした。

僕も福島があの状況でしたから140km南のほど近い住人として、西に向かわなければと思いました。その途中、投宿した東横インで、僕は陛下のおことばを見、聞いたのです。

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穏やかな中に憂いを秘めた表情。「放送中に余震や津波の知らせがあったらいつでも中断していい」というNHKが報じたメッセージにも、嫌味は感じませんでした。

ここでお断りすれば、僕は自分の思想と感受性の基盤はキリスト教にあります。インテリの端くれとしてマルクスを読み、社会科学および人文科学に及ぼしたマルクス主義の影響は正の面をより評価する。投票は、中野重治ではありませんが「阿呆どもが」と忌々しく思いながら共産党にたびたび投じています。

しかし、共産党がいうのとは違った意味で、僕は天皇というものを(天皇制ではない)静かに、強く肯定する。その意味で55年体制かそれ以前のマッカーサーの思惑の掌を出ていないことになるだろう。だが、5年前の3月16日の陛下のおことばは、それは俺が古事記日本書紀いらい親しんできた祈り人としての天皇の系譜そのものだった。神職の頂点にあって国の穢れを祓い清める。排除するのではなく。先帝に祈りを捧げる。

同時にこのおことばは、そこまで福島原発の状況は、宮城の沿岸の壊滅は、祈りを動員しなければならないほどなのかという重い直観を俺にもたらした。

*

うれしいことがあった。

天皇陛下 8月にもお気持ち表明へ | NHKニュース

退位されたのち、象徴として、お忍びで各地を行幸なさったら素敵(それ漫遊水戸黄門

2016/07/29 08:06

b.hatena.ne.jp

82歳のご老人に、20年、せめて10年前に、今回の議論を行い、美智子様を伴って各地を行幸なさる、そんなあり方が実現していればよりよかったと思う。先の昭和天皇は戦禍にみまわれた各地、とりわけ沖縄のことを、最後まで気になさっていた。明仁陛下は、加えて、パラリンピックを始めとした、いわゆる障碍者とそのイベントおよび幾多の施設をお訪ねになっていた。僕はそこに悲田院以来の天皇家ノブレス・オブリージュを見る。(この言い方が左翼だw)

実現はすまい。退位なさったのち、ハンセン病療養所をお忍びでお訪ねになることがあるだろうか。難しかろう。

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1つ、草莽から、マスメディアにお願いがある。まだずいぶん先の話になることを願ってはいる。が、先の陛下のときのような、ご病状を朝に夕に伝える報道は、自粛していただきたい。この10年のあいだに、(悲しいことだけれど)X DAYはやってくることだろう。ご退位後は、その名君の軌跡を、静かに品よく報じてほしい。

名君。そう、俺は昭和48年の生まれだから昭和のおっさんではある。しかし昭和天皇は歴史としての同時代の帝である。同じ時代を生きた/生きているという感懐は、今上陛下のほうがより強い。そのことを、ブコメで図らずしも確認し、思わぬ数のスターをもらったことは、とてもうれしかった。

橋をかける (文春文庫)

橋をかける (文春文庫)

 

何の話だっけ。そう、中野重治な。陛下、どうぞご自愛を。