illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

白鵬に農作物の出来を占わせるわけにはいかない

タイトルは釣りです。調子に乗りました。ごめんなさい。

触発されました。ありがとうございます。書きます。

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相撲は翌年の農作物の出来を占う神事が起源、日本人の民族的体質の古層にあります。たしかそうだったと思って調べたら、やっぱりそうでした。僕が自分のことばで言い換えを行いましたが、日本相撲協会自身が同じ趣旨のことをいっています。

相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきた。これが後に宮廷の行事となり300年続くことなる。

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他の競技で準えることには慎重でありたい。が、あえていうなら綱引きに近いと思います。正面から二者が力を尽くして初めて、吉側に倒れるか凶側に倒れるかが明らかになります。力人に吉凶を託した民は、結果がいずれにせよ占いを受け止め、新しい年の農作業に備えます。

綱引きで正面から全力で引き合わなかったらブーイングが起きます。横綱は、そういう戦い方を託され、各地の穀物の産地から選ばれた代表の頂点です。(力士名に地名+風物の組み合わせが多かったり、お米のブランド名に何となく似ていたりするのも、同様に説明がつきそうですね。)

もし、そういった正々堂々の、正面からの戦い方を外れたらどうなるか。生贄にされます。行司は短刀を携えているのだから、不敬な横綱を刺し、自らも腹を捌けばいいのです。なぜ生贄にされるかといえば、古代の感覚では、天地(あめつち)の怒りを鎮めるにはそれしかないから。天地の怒りが静まらなければ、民百姓は落ち着いて収穫に臨めません。

その観点では、ルールや明文化の話ではないことになります。近代人としては、もちろんその側面が大きい。でも、日本人の民族的体質の根っこにそういうの(神事をみる農民の感性)が無意識に残っていて、それが座布団を舞わせているのだとしたら、近代スポーツ競技のロジックで攻めてもどこかいわれたほうも腑に落ちない話。

外国人横綱が嫌われるのも、この辺が理由の1つにあるのかもしれません。朝青龍にも、白鵬にも、わからないでしょう。そこは、同情します。批判する側も、どこか腑に落ちなさを残しながら物言いをするから消化不良になる。(「正々堂々」がたとえば高校野球で珍重されるのも、僕には同じ構造が感じられます。こちらは、後付けで持ち込まれたイデオロギーだとは思いますが。)

以上を踏まえると、筋を糺す立場にあるのは、立行司式守伊之助です。式守伊之助が、千秋楽の大一番の後、取り組みを不満に感じたら、無言の抗議を行う。古式によるなら、本当は刺し違える(差し、ではない)のが正しいのですが。そしてその様子を2分くらい実況音声のみで中継することを、NHKにはぜひおすすめしたい。

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たとえば、こんなふうにね。これなら、オンデマンドで受信料払う。

…ぼくは、テレビの野球中継に満足しているわけではない。パターン化されたカット割りが多すぎる。日本でテレビ放送が始まったころスポーツ中継の基本形を作りあげたディレクターの一人である後藤達彦さんがある雑誌に「長回し」のカットについて書いていた。かれが民放で相撲中継を担当していたとき、物言いのついた一番があった。行司差しちがえ。判定はくつがえった。そのとき、行事は土俵上で涙ながらに自分の判断の正しさを主張した。そういうこともあったのである。行司の名前は式守伊之助。白いひげで有名だった、あの伊之助さんである。問題の一番は栃錦・北の洋戦。その一番が終わり、土俵をおりて向正面に座った伊之助の表情をディレクターだった後藤さんは撮りつづけたという。じっとカメラを据えたままの長回し。時間にして約三分。動かない映像にもドラマはある。

山際淳司「もっとドラマを『劇場』野球」角川文庫『スタジアムで会おう』P.123

スタジアムで会おう (角川文庫)

スタジアムで会おう (角川文庫)

 

ついでに。興行面では難しいでしょうが、年1回、新年を迎える前の年間1場所制にするか、せめてその場所の千秋楽だけは八百長や無気力や立ち合い変化を封じるくらいはやっていいいかもしれません。