illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

白菜はM気質

 DASH村で取り上げられたことがあるそうだがそんなことは知らん。白菜は霜の降りる季節になると葉っぱの上の部分を軽く結わえてから、わざと霜に当てるのである。であるというか、そうだったというか、いま思い出したというか。

 紐で結わえるのは(縛るという地域もある)芯まで霜にやられるとさすがに適わないから。ではどうしてそうまでして霜に当たらせるかといえば、寒い→やばい→蓄えたでんぷんを糖分に変えてやれ→これなら凍るまいうっしっし的な白菜作用が働くからだ(人にとっては甘味が増す)と、ずいぶん昔にばあさんから聞いたことをいまになって思い出した。

 ばあさんのいうことは120パーセント信じる俺であるが、さすがにこの話はあるまいと思っていた。ほかに、庭木は話しかけるとよく伸びるとか。すまない。

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 俺は幼稚園児のころ庭の手入れをするばあさんの後を、ひよこのようにひょこひょこと(何でもない/忘れてほしい/ほととぎす)ついて歩くのが好きだった。花の名前をひとつひとつ教えてくれた。忘れたのは受験勉強のせいということにする。庭木を忘れ、たまに剪定を手伝おうとして無花果を切ってしまったとき、親父から叱られたのをかばってくれたのはばあさんであった。

 そのばあさんは庭の木に話しかけながら水をやる。実に楽しそうに。ばあさんは「お花さん」と呼んでいた。だから俺も5歳までは「チューリップさん」「水仙さん」「ひよこさん」と呼んでいた。

 街の小学校にあがり、都会の人は花に話しかけないことを知った俺は驚き、ことばを失った。そして適応のために何ものかを封印した。いまになってオカルトの連中が水に話しかけると結晶が違うだの、ガーデニング勢が庭木に話かけるといいだのといいふらすのを見ていると、だから妙な気分になって仕方がない。

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 つまり、俺が毎晩、仕事から帰ると漬物に話しかけるのは、近代人の孤独を抱いているからではないのである。むしろ逆の作用なのだ。頼むからそういうことにしておいてくれ。

 そういえば、と、俺はばあさんの葬式のときのことを思い出した。庭のモチノキよりも柏よりも、いちばん話しかけてもらったのは俺だった。そんなことを出棺のときの孫代表の挨拶とかいうのでついうっかりお披露目したら、なんとか議員だとかろくに知らない連中が「いいお孫さんだ」としきりにほめてくれたので、内心舌を出しながら頭を下げて聞いていた。君らが戦時中にうちのどぶろく目当てに通ってきたことは余すところなく聞かされている。当時は渋柿の樽抜きが貴重な甘味だった。

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 ばあさんはアルツハイマーになってから、かつて育てていた鶏と、庭木と、孫たちを隔てていた仕切りが薄れたような呼び方をするようになった。周囲はパニック反応を示したが、考えてみればあれは土に還ろうとする自然の儀式だったのだ。そうと知れば、鶏や紫陽花と同列に「早く大きくなってね」といってもらえるというのは、むしろかなり名誉なことである。

 でも「カクテキさん」はちょっと辛い。辛い(からい)ではない。キムチもカクテキも子供のころにはなかった食材である。転入生を見るような目で眺めてしまうのだと思う。