illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

男どき女どきとは何であろうか/向田邦子「ゆでたまご」に触れずに語る

 にらめっこがおかしくなくなったとき、男の子はおとなになる。女がヘンな顔を見ても笑わなくなるのは、老婆になったとき、死に目が近いときであろう。箸が転げて笑うのは女である。男はそんなものでは笑わない。女は、身に覚えのあるもの、目に見えるものしかおかしくないのだ。政治や社会現象は目に見えない。抽象画である。女は笑うことは出来ても、嗤うことは出来ない仕組みに体が出来ているらしい。

向田邦子「笑いと嗤い」新潮文庫山藤章二のブラック=アングル'77』所収P.117

男どき女どき (新潮文庫)

男どき女どき (新潮文庫)

 

 「男どき女どき」の典拠は世阿弥風姿花伝」である。ウィキペディアが存在する時代に自家薬籠に収め(たつもりにな)るのは簡単だが、1980年代初めにそれを易々とやってのける力量は只者ではない。やはりすごいな姉さん。

 して、その男どき女どきとは何であるか。

 時の間にも、男時・女時と てあるべし。いかにするとも、能によき時あれば、かならず悪きこと、またあるべし。これ力なき因果なり。(中略)この男時・女時とは、一切の勝負に、さだめて一方色めきて、よき時分になることあり。これを男時と心得べし。勝負の物数久しければ、両方へ移り変りうつりかはりすべし。

世阿弥花伝書」「風姿花伝」より

 時の間にも男時と女時というのがあるに違いない。能を演じていてうまくいく時があれば、うまくいかない時もまた必ずある。これはやむを得ない因果というものである。(中略)では、この男時と女時というのは何か。それは一切の勝負において、一方に勢いが傾き、時に恵まれることである。これが男時であると心得よ。場数が増え、長く(能を)行えば、男時と女時が必ずや相互に移り変わるはずである。

 Googleに訊いてもらえばわかるが「男時」「女時」はビジネスや相場の文脈で好んで引用される。簡単にいえば男時というのは勝ちの流れが来ているときであり、女時というのはそうでないときである(近代思想に基づいた男女差別云々の文句は河岸を変えてやってくれ。世阿弥はおそらく陰陽を喩えたにすぎない)。

 なるほど。自分で頷いてどうする。

 さて、われらが向田姉さんは「何事も成功する時を男時、めぐり合わせの悪い時を女時という」と引いた上で、それを男と女の「とき」に重ねている。男にも女にも匂い立つ時期、時節がある、しかしそれもめぐり合わせ次第で咲いたり咲かなかったりするのだと、姉さんは俺たちに物語の形で諭してくれる。

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 さて、ここまで君らは「男どき女どき」をどう読んできただろうか。世阿弥の立場/時代には「おどきめどき」と訓じた。「おとこどきおんなどき」ではない。恥じることはない。向田邦子の投じる外角低めのスライダーは難しすぎるのである。俺もこういう室町と昭和の架橋を生涯にいちどはやってみたいのだが。

天然 板東英二のゆでたまご伝説

天然 板東英二のゆでたまご伝説

 

 山藤さんの作品を笑っているうちに、女もすこしずつ笑いが判るようになる。苦手な風刺の味が判るようになる。新聞の一面を読んだだけで、ヘンだな、と思ったり、苦笑失笑哄笑が出来るようになる。

 男女同権は、そのときやっと本ものになるのだ。山藤さんの「ブラック=アングル」はそのための水先案内人であり、稽古台であり踏絵であると、私は思っている。

前掲書P.121-122(昭和56年1月) 

山藤章二のブラック=アングル’77 (新潮文庫)

山藤章二のブラック=アングル’77 (新潮文庫)

 

 受験生は「換骨奪胎」「本歌取り」の例を問われたら本書を熱く語るように。「ゆでたまご」読んどけ。 昭和後期にはこういうことをちゃんと話してくれる女性がいたものだがなあ。