もち米を炊く、もとい蒸す話をしたくなった。冬が近いからであろうか。
わが家では12月29日か30日に納屋の前で餅つきをする習慣があった。
初めに断っておけば、餅つきとは臼と杵で餅をつくだけではないのである。それからもち米は炊くのではなく蒸すのである。そしてこの蒸したてのちょっと固めのもち米というのはべらぼうにうまいのである。だが、そのことはあまり知られていないようである。
前の晩の準備
「一升10人分」とひと口にいう。うちでは二升を用意した。水につけておく。
当日の朝(午前3時半)
水につけておいたもち米をざるにあける。水を切る。同じタイミングで竈に火をくべる。手がかじかんでいることを忘れる。お湯をわかす。臼にはぬるま湯を張る。横着して前の晩から張っておくのは朝方に凍るのでお勧めしない。家中のポットを集めてお湯を移す。薪は前日までに天日に。
当日の朝(午前4時過ぎ)
竈(かまど)に2段か3段の蒸籠(せいろ)をセットしてもち米を蒸す。火は強すぎるくらいでちょうどいい。時間は30分、45分、60分でみる。15分ごとに味見をするのである。30分はやめておけ。いくらなんでも早すぎる。固い。
当日の朝(午前5時前)
40~45分の固めがうまい。皿にとって醤油をすこしたらす。胡椒をかけてもうまいのだが邪道な気がする。なぜか里芋も煮えている。ばあさんいつのまに仕事を。
当日の朝(午前5時)
満足して寝る。
脇を抱え起こされる
ここまでですでに百姓の労働倫理に適う大満足コースなのであるが、しかし、このような乱暴狼藉が許されるのは13、14歳までの話である。筋肉がついて身体が出来てきた男の子にこのタイミングで寝ることなど許されない。まだ餅をついていないであろうが。火をくべた腰を起こして、あるときには脇を抱えられるなどして、そのまま餅つきにかりだされる。いやだー。おふくろは厳しいからいやなのである。つき手(えらい)はおれのはずなのに。ばあさんがこねてくれるのならやる。
餅つきの前座
さて餅つきであるがその前座。
餅というのは臼にもち米をうつして初めに少々体重を乗せてつぶすのだが、このタイミングもまた実にうまい。臼から自分でとると杵をもつ手がおろそかになる。そこでつき手の男に女衆がもち米をときどき食わせてくれる。これである(おふくろはつきなさいといって食わせてくれない。それでは相の手ではなかろう。ばあさんは餅米なんていくらでもあるからといって食わせてくれる。おれはがぜんやる気が出る)。申し遅れたが手順の中でたっぷりの湯を沸かしてポットに入れておいたのは途中、つきあがって餅米を替える際に臼と杵を洗い清めるためである。
さらに、ひとくちふたくちならつき手には酒を口に含むことが許される。働き手であれば子供だろうが関係ない。うちでは剣菱が多かった。そしてそこに里芋である。おせちをつまんでもいいのだが、大人になるにつれそれは楽しみをみずから減らす愚行であることを学習する。
お豆さんのこと
そうだ。お豆さんのことを忘れていた。黒豆を蒸すのである。蒸籠は3段ロケットだと先に記した。その2段目、中の段に黒豆さんを入れる。20分くらいか。ふやけて芯が遠のいた感じがしたら適当なタイミングで臼に投入する。まあこの辺になると男衆の心配することではない。
ときに黒豆というのは不思議な生きもので、それ自体をつまみ食いするとうまいはうまいのだがさほどでもなく、餅と醤油が加わることで絶妙の味わいを発揮する。同じ伝で昆布餅というのもある。ほかに大根おろし、磯辺、きなこ(安倍川)、よしなに。
眠る
存分に働いたところで眠りにつく。働いたといってもせいぜい午前9時か10時。ひと眠りして起きると、こんどは松前の烏賊を切るだとか(柿)羊羹のもとをかき混ぜるだとかいろんな仕事が待っている。知らないあいだに臼と杵はきれいに片付けられている。餅の形も丸く整えられている。それらはなにごとにも手際のいいばあさんの仕業であった。
まとめ
昭和60年頃の北関東の田舎家にはそんな風習が残っていた。12月30日が1年でいちばんうまい日であったかも知れない。働くことと食うことが一体になった1日の風習を、柳田国男や宮本常一がわが家に訪ねてきたならばきっと喜んだことだろう。
追伸
記憶の中のイメージに近い動画に出会ったので紹介する。