地元の魅力を発見しよう!特別企画「地元発見伝」
海外で仕事をしていた時期があった。戻ってくると家さがしである。実家が都心には通いきれないところにあるため、成田から安いビジネスホテルに直行し、そのまま帰任休暇を取得して今度はどこに住んでみようかと思うことが、そのころの僕の楽しみのひとつになっていた。
というのは格好をつけすぎた説明であって、そのような機会はそうそうあるものではない。そのときの僕はドイツから戻ってきたばかり、仕事はあったがしゃかりきに帰属を求める必要のない立場で、身の振り方を考える時間は十分にあった。もっといえば日本がいやになって1年ほど海外をふらついていたのである。12年ほど前、2002年頃の話だ。
季節は2月の末だった。街にはわずかに春の香りが漂い始めていた。
どこに住もうかと思ったときにまず候補として浮かんだのが、都心から少し南で桜の並木のある家賃のあまり高くない場所であった。僕の住んでいたドイツの場所は寒かった。成田に降り立ったとき、僕は桜を見たいと切望していた。それだけの絞り込みでは候補は多すぎる。さて、どうしようか。そう思ったときに僕はトラベルケースに1冊の文庫本を忍ばせていたことを思い出した。
江夏は、1985年1月19日に一本杉球場で行われた引退式のことを忘れることができないだろう。
ブリュワーズのキャンプに参加した江夏は、結局のところ、メジャーには残れなかった。キャンプの後半になると、毎日誰かが荷物をまとめてロッカールームを出ていく。登録枠に残れるか否か、厳しい選別が始まる。江夏はいくつかの関門をくぐり抜けた。キャンプ終盤のオープン戦にも参加した。しかし、そこまでだった。オープン戦で、カリフォルニア・エンジェルスのスラッガー、レジー・ジャクソンと対戦したところで江夏はもう投げなくてもいいと通告された。
山際淳司「一本杉球場にて」角川文庫『野球雲の見える日』P.212
調べてみると、一本杉球場の近くには桜並木があるという。
ここだ、と僕は思った。
……彼は折にふれ、思い出すにちがいない。
「……胸を張って、マウンドにあがり、胸を張ってマウンドを降りてきました。江夏豊はいつでも胸を張って野球をやってきました。……」
一本杉球場のホームベースのあたりに立ち、マイクに向かって、江夏はそういったのだった。
その言葉が、まだどこかでこだましているような気がする。
同P.212
ここに記すことはできないが、そのころの僕は個人的なことをいくつか抱えていた。それは誰の力も借りずに自分だけで解決しなければならない種類のものだった。江夏のように、胸を張ってきた、これからもそうやって生きていけると、そう自分にいいきかせることは到底できそうになかった。それでも暮らしは何とか立てていかなければならない。
「ことばは悪いですが、東南アジアから出稼ぎにきた女性と似た境遇ですね」
相談にのってくれた不動産屋さんはそんなふうに僕にいって、笑った。
「すみません」
「でも、何とかなりますよ」
「桜はきれいな場所ですか」僕は訊いた。
「きれいです。もうじきです。うちでも僕も毎年、行くんですよ」
「……こだまが、まさか、聞こえるわけないですよね」
「こだま? 新幹線?」
「いえ、何でもないです。すみません」
契約の話が本決まりになると、宅地建物取引主任者があらわれて、てきぱきと説明を進めてくれた。家賃6万円のワンルーム。2階の角部屋。ダミーの保証人と勤務先と年収を立てて、少々の追加の手数料を払い(その辺りの諸々は不動産会社がうまくやってくれた)、僕は晴れて一本杉球場に至近の住人になった。
入居をして、まず買ったのがカーテンである。次に携帯電話。それから絨毯と布団と室内物干しとパソコンとモニタとPCデスクとテレビと冷蔵庫と洗濯機を調達した。インターネット回線を引いて翻訳の仕事をもらって始めた。バスの時刻表とスーパーの場所を覚えて、暮らしのコストの大枠が見えて自信がつくまでにおよそ1ヶ月かかった。貯金を崩し、崩した分は手仕事で埋める。支払いサイクルから埋まるのは月末締めの翌々月15日である。
入居したのが2月末。3月中はがむしゃらに働いた。仕事が切れない幸運もあった。3月にした仕事の支払いは5月15日。並行して就職活動も進めていた。面接の回を重ねることができたのは幸運だったという以外にない。
ところで、僕はある誓いを立てていた。日本でやっていける自信がついたら、「そこ」に足を運ぼうと思っていたのだ。一本杉球場の金網である。そこからマウンドに目を注ぐ。キンセラが『シューレス・ジョー』(文春文庫)に記したことが本当だとしたら、<それ>あるいは<彼>が僕にも見えるかもしれなかった。
それを作れば彼はやって来る。
果たして、と、山際さんに倣って記すべきだろう。
谺(こだま)は聞こえなかった。かわりに桜の花弁が風に舞った。すばらしいというほかにない桜並木のアーチが、春の光を受けていた。鶴牧のメタセコイアの緑が紅葉に色を染めるころ、僕は新しく就いた仕事に追いまくられるようになっていた。