illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「問題意識」ノンフィクションの行方/沢木耕太郎の仕事の意味

 汝の嫌うものに全力で従うがいいと教唆したのは三島由紀夫である。これから沢木耕太郎批判を進めるためには大沢たかおの笑顔から初めなければなるまい。大沢たかおは嫌いではない。嫌いなのは沢木である。


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 沢木のスポーツノンフィクション9作を挙げた。概ねこの順で打線と思っていただいて構わない。1番は榎本喜八でないと榎本自身が納得しないだろうし、3番サードは難波昭二郎でなければならないし(伝わらないと思うけれど)、4番はやはり円谷幸吉を差し置くわけにはいかない。「ガリヴァー漂流」「砂漠の十字架」(そして「キャパの十字架」)は正直なところタイトル負けの気がする。そもそも沢木はスポーツノンフィクションの旗手であったのかという疑問が僕にはある。

 沢木作品の特徴は強い問題意識にある。隠そうともしない。なぜ円谷は死を選ばなければならなかったのか。たったいちどの「もし」が許されるならば「アべべの足の状態を円谷が知っていたとしたら、円谷は果たして死んだであろうか」。 

敗れざる者たち (文春文庫)

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 なるほど。そうですか。

 僕は必ずしもそのようには考えない。が、沢木が問うてみたいというなら好きにすればいい。同時に、書籍代を払った読者に押し付け、かつ、そのまま回収しないのはよくない行いであると僕は思う。少し譲って、そのような主題の持ち方を若気の至りと呼べるのなら1作2作までは放っておくこともできる。しかし、それが沢木の作品の大半であったらどうか。上に挙げた9作はほとんどが沢木の問題意識に始まり、中途半端ともいえる「果たして」の投げかけの形で終わる共通した構造をもっている。沢木のノンフィクションというのは、酔えはするし、読んでいるうちは自分「(だけ)には」この問題意識はわかるという気にさせてくれるのだが、醒めてみたらどこにも連れていってくれなかったことに気付かざるを得ない。あたかも新興宗教のような仕掛けを備えているのである。共依存はたちが悪い。

 そこまでいう沢木アンチの僕がそれではなぜこの記事を書くのか。理由は2つある。それはまず、僕が懇意にしている妙齢のお嬢さんが沢木に興味を示してくれたことである。彼女には村上春樹「かえるくん、東京を救う」に深い理解を示し、開高健「人とこの世界」を眉をひそめつつ笑って受け止め/受け流す健全な余力がある。沢木のほうに走らせてはなるまい。全力で阻止する機会だ。

 もう1つは問題意識を希釈して東南アジアをちゃらちゃらと旅した間延びした何とかいう作品がベストセラー然をしていることである。あれが読めるのは新潮の1巻か2巻までだろう。みんな本当のことをいってくれ。いちいち何かを意識に引っかけてくるバックパッカーと陸路で世界一周をしたら息が詰まる。そんなことをするくらいなら現地の娼婦とまたたく間に闇という名のボットン便所に落ちて呵々大笑する開高大兄とワインを傾ける派閥に、少なくとも俺は属している。 

開口閉口 (新潮文庫)

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 以上を踏まえて、二枚腰の俺は舌の根の乾かないうちに沢木擁護に回る。そうはいっても読むべきものはある。沢木の問題意識と取材と時代像が焦点を結ぼうとする瞬間に立ち会ってしまうことがあるのだ。口惜しいが否定できない。女だったら立ちどころによろめいてしまうだろう。

  • 「鼠たちの祭」(板崎喜内人)
  • 「テロルの決算」(浅沼稲次郎山口二矢
  • 「さらば、宝石」(榎本喜八
  • 「檀」(ヨソ子
  • 「鏡の調書」(滝本キヨ/片桐つるえ)
  • 「三人の三塁手」(難波昭二郎)
  • 「屑の世界」(親方と曳子)
  • 「危機の宰相」(下村治)

 スポーツノンフィクションを選択肢の1つとして退かせた場合の打線はこんなところであろうか。逆にいえば「さらば、宝石」は3番で輝いている。榎本の名誉のためにも。

 3作、述べる。

 「鼠たちの祭」は昭和50年までをひと区切りとした仕手たちの物語である。男は危機と遊びにしか夢中になれないと喝破したのは開高健であるが、小豆の時代もFXの当代も男という生き物のやるせなさにはつくづく胸が熱くなる。本作も末尾に沢木の余分な問題提起が顔を出すのだが、その点を差し引いても傑作の筆頭に挙げられる。 

 「檀」は愛人入江杏子のもとに去った「火宅の人」檀一雄の本妻、旧姓山田ヨソ子に長期の取材を行い、ヨソ子夫人になりかわった渾身の一人称を用いて沢木が檀一雄という男の人生に訓点を施そうと試みた奇跡である。現時点においてなお沢木の到達点であろう。沢木の「私ノンフィクション」はこのように他者の視点に寄り添うほうににじり寄るのが正統進化のはずである。終章末尾のくだりが宙ぶらりんに感じられるのは沢木と俺が男だからであって、到底ヨソ子夫人の愛の深さには敵わないと深くうなだれるほかにない。というのはちょっと褒めすぎ/甘い評価であって、結びとしてはやはり画竜点睛を欠く。とはいえ読んで涙ぐんでしまったのは事実であり、これは名折れと思い「檀流クッキング」を手にキッチンに向かったことを白状せねばなるまい。

檀流クッキング (中公文庫BIBLIO)

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  「鏡の調書」は「83歳の天才詐欺師」片桐つるえ(昭和45年当時80有余歳)の生涯とその周辺を洗ったものである。沢木の暗部へと傾きがちな視点を老婆詐欺師の痛快が救う。沢木自身が書きながらそのことを予感しているのが興味深い。

 この事件の救いは、片桐の、世界の主人公は私だという強い意志に支えられたバイタリティーと、被害者の側にある種の余裕が残っているということである。
 たとえば八百屋の窪田信次は、自分の申し立てた被害額と片桐つるえの《もっと少なかった》という主張の間に入って困惑している係官に、こういっている。
 《間違いないものと思いますが、どうせこれは無い金ですから、おばあちゃんのいう額にしてあげてください》
 この事件には悲惨さが感じられない。

「鏡の調書」新潮文庫『人の砂漠』P.508

 おしまいに、これだけ悪口を書いても沢木を読んでみたいという読者のために短篇集と長編を1作ずつ挙げる。 

人の砂漠 (新潮文庫)

人の砂漠 (新潮文庫)

 

 

檀 (新潮文庫)

檀 (新潮文庫)

 

 (追伸)いつかは夢から醒める日がくる。沢木の作品に食傷したらどこに向かえばいいのか。そのことに触れなければこの記事は片手落ちの謗りを免れないであろう。近く触れるつもりでいる。

 もう1点。「凍」も力作だとは思うが、沢木ノンフィクションのこれまでの方向性からするとズル(であり山野井夫妻にとってひょっとしたら迷惑)である。「檀」はヨソ子未亡人にとってもふみさんにとっても思い出したくない話題だった。そりゃそうだ。作品中にも書いてある。これを取材の力で覆したのを功徳という。「凍」は山野井夫妻に受け入れてもらうだけである。

凍 (新潮文庫)

凍 (新潮文庫)

 

 

沢木耕太郎とは編集