illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

もうひとつの「たった一人のオリンピック」

 突然ですが、山際淳司「たった一人のオリンピック」には実は2版あるという話をします。5分ほどお付き合いください。

 *

1980年のモスクワ五輪シングルスカル競技の日本代表に選ばれた津田真男さん(当時27歳)は、日本を含む西側陣営の参加ボイコットに翻弄され、20代の夢、奇跡の快進撃、モラトリアムの閉幕を余儀なくされます。このシーンは角川文庫版の描写によってよく知られているところです。

 彼はモスクワ五輪の代表選手に選ばれた。その五輪に日本が参加しなかったのは周知のとおりである。
 《結局は》と、彼はいった。《自分のためにやってきたんです。国のためでも大学のためでもなかった。自分のため、ただそれだけです。だからボートを続けることにこだわることができた。バイトをしながらのカツカツの生活でもボートを続けられた》
 津田真男は、現在、ある電気メーカーに勤めている。ボートはやっていない。

(「たった一人のオリンピック」P.86/角川文庫『スローカーブを、もう一球』所収)

 感動的ですね。なんど読み返しても熱いものが胸に去来します。

 そして、この感動的なエンディングが冒頭の1パラグラフと、具をはさみこむサンドイッチのパンのように対になっていることは、作品に慣れ親しんだ人には頷いていただけると思います。その、エンディングと同じくらい印象的な冒頭部分を引用してみます。

 使い古しの、すっかり薄く丸くなってしまった石鹸を見て、ちょっと待ってくれという気分になってみたりすることが、多分、だれにでもあるはずだ。日々、こすられ削られていくうちに、新しくフレッシュであった時の姿はみるみる失われていく。まるで――と、そこで思ってもいい。これじゃまるで自分のようではないか、と。日常的に、あまりに日常的に日々を生きすぎてしまうなかで、ぼくらはおどろくほど丸くなり、うすっぺらくなっている。そのことのおぞましいまでの恐ろしさにふと気づき、地球の自転を止めるようにして自らの人生を逆回転させてみようと思うのはナンセンスなのだろうか。周囲の人たちは昨日までと同じように歩いていく。それに逆らうように立ち止まってみる。それだけで、人は一匹狼だろう。
 一人のアマチュア・スポーツマンがいた。

(同P.62)

 この冒頭をA(Aはもう少し続くのですが割愛します)、エンディングを仮にBとします。すると「たった一人のオリンピック」という作品は、A/ノンフィクション部分(X)/Bというサンドイッチ型をしているといえます。Xは山際さんが津田さんに対しておこなったインタビューをもとに構成されたいわゆる取材文。それに対してAとBは山際さんの思い入れを強く感じさせる部分です。Bには留保がつくのですが(後ほど触れます)、ひとまずこの作品は大まかにA/X/Bという形をしていることをご理解ください。

 さて、もう1版、初出である文藝春秋版のほうはどのような構成になっているでしょうか。1980年8月号P.408を開いてみてください(これはさすがに普通は手元にないと思います。公立図書館のリファレンスサービスなどをご活用ください。僕は東京都立図書館のお世話になりました)。角川文庫版との違いは大きく3つあります。

  1. まず、副題がついています。「スポーツエリートと無縁な一青年の金メダル奪取計画」。
  2. Aにあたる部分がありません。作品はXから始まっています。
  3. Bの終わり方が異なります。文庫版はヒロイックに、無名の英雄叙事詩のように終わるのに対し、文藝春秋版は津田青年のなんとも力の抜けたやるせなさが漂う作りになっています。

 ポイントになる部分を引用します。

 まず角川文庫版。

 (中略)…一人でやれば、行きづまることもあります。それを避けるためにぼくは練習量を自分と契約したんです。今日は何本漕ごうとあらかじめ契約しておく。途中でいやになると契約違反だといいきかせて練習をするわけです。あと一本漕げば金メダルだといいきかせたわけですよ……》

 

 *

 

 そして時が流れた。二十代の後半を、彼はボートとともに過ごしてしまったわけだった。ほかのことに見向きもせずにだ。オリンピックに出るという、そのことだけを考えながら、である。
 決算はついたのだろうか。彼が費やした青春時代という時間の中から果実は生み出されたのだろうか。一つのことに賭けたのだから、彼の青春はそれなりに美しかったのだ、などとはいえないだろう。
 彼がそんな話をしているのは、板橋区蓮根、高島平団地のすぐ近くにある1DKの借りマンションの一室である。部屋の中はボート一色になっており、キッチンには"赤まむし"ドリンクが積まれている。近くのスーパーで一本三十円のセールをやっていたときに買いだめしたものだ。
 バイトをしながら二十代の五年間をマイナー・スポーツのオリンピック選手になるという突然の思いつきに費し、たった一人のオリンピックを闘ってきた男の部屋の一本三十円の赤まむしドリンクが妙にまがまがしくリアルである。
 彼はモスクワ五輪の代表選手に選ばれた。その五輪に日本が参加しなかったのは周知のとおりである。
 《結局は》と、彼はいった。《自分のためにやってきたんです。国のためでも大学のためでもなかった。自分のため、ただそれだけです。だからボートを続けることにこだわることができた。バイトをしながらのカツカツの生活でもボートを続けられた》
 津田真男は、現在、ある電気メーカーに勤めている。ボートはやっていない。

 (前掲書P.84-85)

 感動的ですね。なんど読み返しても熱いものが胸に去来します。大切なことなので繰り返してみました。

 次が文藝春秋版です。

(中略)…一人でやれば、行きづまることもあります。それを避けるためにぼくは練習量を自分と契約したんです。今日は何本漕ごうとあらかじめ契約しておく。途中でいやになると契約違反だといいきかせて練習をするわけです。あと一本漕げば金メダルだといいきかせたわけですよ……》

 

 「全く、もー」小見出し

 

 彼がそんな話をしているのは、板橋区蓮根、高島平団地のすぐ近くにある1DKの借りマンションの一室である。部屋の中はボート一色になっており、キッチンには"赤まむし"ドリンクが積まれている。近くのスーパーで一本三十円のセールをやっていたときに買いだめしたものだ。
 バイトをしながら二十代の五年間をマイナー・スポーツのオリンピック選手になるという突然の思いつきに費し、たった一人のオリンピックを闘ってきた男の部屋の一本三十円の赤まむしドリンクが妙にまがまがしくリアルである。
 彼はモスクワ五輪の代表選手に選ばれた。その五輪に日本が参加しなかったのは周知のとおりである。
 六月十九日。スイスのルツェルンから帰ると彼はとりたててすることはない。
 《まず最初にしなければならないことは――》
 と、津田真男はいう。
 《この数日間を食うためのバイトをさがさなければいけません》
 ボートからはこれで引退する。

(青字は角川文庫版との差分を引用者が施したもの。このあと(B)が20文字×42行、津田青年のトホホ感――落胆や徒労ではなくあえてこの字面を選びました――が連ねられます。そして次のようにして物語は幕を下ろします)

 それにしても――と彼はボソリとつぶやいた。
 《……今のところに引っ越して電話を入れた時からツイてなかったんですナ。電話番号を見たとき、イヤな感じがしたんです。九六五―六七四九。どう読んでも、"苦労後、むなしく"としか読めないんです。あの時のイヤーな感じがまざまざとよみがえってくるんだなあ。全く、もー》

 (『文藝春秋』1980年8月号P.420-421)

 えー。なんだそれー。これは僕が愛して追いかけてきた「たった一人のオリンピック」ではない(笑)。それにしても、「ワシ」という当時のプロ野球ジャーナリズムを席巻していた一人称とおっさん風情を嫌った山際さんが「ツイてなかったんですナ」と記すとは何たる貴重な…。

 正気に返って、先に僕は角川文庫と文藝春秋の版には3つの違いがあると記しました。が、4つめを加えておきたいと思います(4点とも同じあたりに帰着すると思われるのですが)。

  • 文藝春秋版では津田青年は「ボートからはこれで引退する」と話しています。対して、角川文庫版では山際さんの語り口として「ボートはやっていない」と、ボート、あるいは自分の青春時代からの決別/断絶を印象づけるものとして終わっています。

 史実はどうでしょうか。

 津田さんはいったんはシングルスカル競技から引退します。しかしその後も適度な距離を保ちながらボート競技とは付き合いを続けます。例えば朝日新聞1997年5月2日付け夕刊スポーツ面「幻の五輪代表 闘志今なお」。大会出場に必要な、自分のために作った「ザ・トール・キング・クラブ」を維持し、90年代前半には都代表として勝ち進んでベテラン強豪の名を馳せます。97年の記事ですが、山際さんが若くしてなくなるのは95年の5月末ですから、それよりも前にひょっとしたら国体会場で津田選手と会っていたかもしれません。

 さらに早く、80年代の早いうちに山際さんは津田さんとボートの縁が切れていないことを把握していた形跡もみられます。1984年5月、島根県の足立崇さんという若者が津田さんの存在を知って自分もボートに挑んでみようと門を叩くのですが、その一部始終は「ロウイング、ロウイング」(『バットマンに栄光を』所収)として短編化されています。

 ほかに『みんな山が大好きだった』『ウィニング・ボールを君に』(単行本)など、山際さんがふとしたところで津田さんに言及している例はけっこうあります。著作全体を見渡してみても、取材したアマチュアスポーツマンへの言及として津田さんが顔を出す回数は(正確に数え上げたわけではありませんが)ちょっと抜きん出ている印象です。

*

 これについて、僕のいまの仮説は、おそらく津田さんは山際さんにとって、自分の青春期を重ねあわせることのできる稀有な――背番号28よりもより等身大の――存在だったのではないかというものです。同時にもしそうだとすれば、津田さんがボートを(いったんは引退したものの)その後も続けていることを知らなかったというのは考えにくい。

 にもかかわらず、なのか、だからこそ、なのか、山際さんは「たった一人のオリンピック」を角川文庫に収めるにあたって、あの形にしたわけです。そこには明らかな作家の意思がみてとれる。

*

 それにしても、純粋な中学生があの作品を読んだらあまりの鮮烈さに「津田さんはボートをやめていまは電気メーカーに勤めているのか。それにしてもこの人の人生は大丈夫なのだろうか」と(僕のように)真に受けたりはしないだろうか。そしてひっきょう青春というものは結実せず、どこかでスポーツや自己回復などという夢からは目を覚ますのが大人になることなのだという天啓を受けてしまわないだろうか。もしそうだとしたら…けしからん。じつに許しがたい。

 それでも、1948年7月生まれ、当時30代前半の山際さんにとって「たった一人のオリンピック」はあの形「ボートはやっていない」で終わらなければならなかったわけです。初出版にあえて手を入れ、あの形で落ち着かせたことには彼(あるいは僕たち)の青春や同時代にとって、何か切実な意味があった/あるのではないだろうか。

 そして、そこには山際淳司という作家を読み解くための、まだ夏の光の当てられたことのない鍵がひそんでいるのではないか。僕はそう思います。すこし遠回りをしますが、山際淳司という作家は知的で乾いた印象とはうらはらに、まだ作家としての地歩が固まらないうちはとりわけ、内的な陰影を抱えていることを示す断章を(きわめて山際さんらしい品のいいやり方で)散らしています。

 ある意味で残念なことにその混乱=可能性は「江夏の21球」の眩さとそれに伴う作家的成功によって後退していくことになります。山際さんは音楽/芸能ライターとして出発した、あるいは本名の犬塚進として文藝春秋で活躍したことが機縁となって『Number』創刊号に抜擢されたのですが、そうした初期のきわめて興味深い事実は(正当に跡づけられることなく)いまではウィキペディアの事項の1つとして淡々と記されているだけの状態になっています。

*

 「たった一人のオリンピック」こそが(「江夏の21球」の陰にあって)、スポーツライター山際淳司の誕生、転回点を示す作品ではないのか。そんな予感におそわれて、僕は暖めつづけていたテーマをようやく書きはじめることにしました(もっとも、こんな疑問に20年近くもこだわりつづけてきたのは僕だけだろうから、共感をもって読んでいただけるかどうかは甚だ疑問ではありますが)。

 というわけで、今日のところは問題の提示だけにして筆をおきたいと思います。続きはまた来週末にでも。どこまでできるかわかりませんががんばってみるつもりです。

 本日はありがとうございました。