illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

おれと院内LAN

このところ「社史に残る」「史上最悪レベルの」と形容されるデスマーチからの部隊救出に向けて、3-4時間睡眠が続いています。案件は少しぼかして書きますが院内LANの移設と更改。都市近郊の準総合病院です。船橋から少し離れたところです。朝は5時起き終電で帰宅が25時のこともあります。もう死に物狂いです。技術屋と事務屋とインテリやくざの顔を使い分けて何とか損害賠償請求(確定でしょう)を減額にもっていかなくてはならない。瑕疵担保責任は必至。詳細設計で今回の更改の肝となった部分を「自宅で検証するから。検証中だから」の一点張りのらりくらりで3か月引っ張って、飛んだ前任PM。

「社史に残る」「史上最悪レベルの」とは聞いていた。だが院内LANと聞いて僕は手を挙げた。理由を記すことははばかられるが、僕は院内LANと聞いたらちょいと黙ってはいられないのである。

「やる。おれが行く。おれが何とかする」

 

僕が入って土俵際で持ちこたえる日々が2週間。もうだめだと思った。腹をくくり、進捗する箇所をとことんやって、どうしても進捗しない箇所を切り出して、その進捗しない箇所をクライアントが何といおうと、技術者としての誠実と正直で個別具体的な検証報告を続けた。2週間。今日、ようやくクライアントが、「実は数年前の担当者が導入した独自の謎仕様のライブラリがあって、ベンダーは開発から手を引き、ドキュメントが残っていない。〇〇さん(ぼく)には申し訳ないが第三者の目で検証を進めてもらうことにしようと上層と先に合意していて、さっき品証が○○さんの報告書を妥当と認めた。できるはずのないことを急かして申し訳ありませんでした。弊社にも病院様(ユーザー)がいますのでなにそつ」と、泣きそうな笑顔を見せてくれた。グータッチを交わしてくださった。

吉祥の予兆はあった。

今日の入場前、待合室の隅に腰を下ろして目を三角に釣り上げていたところを、何を思ったか、品のいいおばあさん(入院の方に見えた)がはす向かいに座って、「お願いがあるんだけど」。「何でしょう」「ペットボトルの蓋が硬くて開かないのを助けてほしい」。

確かに、硬い。開封が硬くて、少し回しておそらくねじ山がきつい。二度目の硬さが来た。こぼれないように水平にゆっくり開けて「こりゃ確かに硬い。無理ですよね」と笑ってお渡ししたら、世間話に花が咲いた。サーバ室入場定刻前のMTGに余裕をもって来ていたはずが、定刻ぎりぎり。

 

階段を駆け上がり、呼吸を整えたところで、ふと思った。

血液グループ先生はよよん君に「会いたい」といわれて会いに行った。2002年8月半ば。その約束時刻の少し前、滋賀県医大の入院病棟のずっと手前にある回廊で、耳鼻科を探すおばあさんに道案内を頼まれて――なぜ頼まれたかというと、白衣を着ていったから。なぜ白衣かというと、血液グループ先生は、よよん君の主治医のひとりだと(そんなことひとこともあのスレッドでは仰らなかったけれど)内心、思っていたから――おばあさんは血液グループ先生のことを大学病院の関係者と思い、耳も遠かったから、道を尋ねれば随伴してくれるのではないかと期待した。

白衣を着ているものの、知らない病院の作りに大いに迷わされた血液グループ先生は、よよん君との待ち合わせ時刻に間に合わなかった。

その、10分ほど前までは、体調がよくないながらも、よよん君の意識ははっきりしていた。話せる状態にあった。血液グループ先生の訪れをいまかと待ち望んでいたとお母様から伺った。その、わずか10分が状況をわけた。この8月の半ばの日を(結果的に)最後のチャンスにして、よよん君の意識の戻ることはなかった。白血病の治療で2度の骨髄移植を受け、いろいろと難しいコンディションにあった。

 

話が長くなった。

僕はかつてこのことを物語風に記したことがある。取材に応じてくれた血液グループ先生も、残念そうにこの話を聞かせてくれた。実際、残念だったのだろうと思う。僕も二人が会えないことを残念に思った。

 

僕がここにたどたどしくも記しておこうと思ったのは、けれど、そのことではない。僕は間違っていた。血液グループ先生は、おばあさんの患者さんを耳鼻科に案内し、一緒になって道に迷っている間(大学病院は迷路のようだから)、楽しんでいたのではなかったかといまにして思う。血液グループ先生は、その時点で、よよん君とこれが「一期一会」になるとは思っていなかった。その時点で、未来は見えていない。遠い予感に留まっている。留めるための技法をだれもが求めていた。

その一策としても、だからむしろ、いましがた、道に迷ったことを、よよん君に会ったら開口一番で話そうと思って、おばあさんを送り届けた後、入院病棟に向かう廊下を、血液グループ先生はうれしそうに急いでいた可能性が考えられる。そんな、悲しみに封印される前に広がっていたかもしれない光景が、ようやく僕にも見えた気がする。ふたりはボコノンの教えに従って足裏を合わせて心を通わせた。

誰かのために必死になって戦うのは、わるくない。

おれの黄金頭さん

安定感も増して、楽屋話とのセットで「過不足なし」を味わえる、結果的な仕掛けにもなっています。「まろやか」さを加えた。ほんとにうまい。すごいうまい。

『ラーメンと愛国』を読み、ラーメンについて語る。 | Books&Apps

黄金頭さんに会えるラーメン店三選 - 関内関外日記

ここで筆の向く先が、収まるとは僕も思っていないですが、ここで安定しないでください。ちょっと危機を感じた。おれも渾身のやつ(高須克弥逮捕)を書きますので。また酒かおつまみか送ります。ほんと、才能を大事にしてね💕

「君死に給ふことなかれ」の解釈 / NHK大阪放送局の小野明良記者の我田引水について

どうしようもないですね。救いようがない。雰囲気と我田引水で記事を書いている。

www3.nhk.or.jp

ああおとうとよ 君を泣く 君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしえしや
人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや

(船橋海神訳)

ああ弟よ。君(のこと)を(声を出して)泣く。弟君、戦死なさってはいけません/明治大君のための死を(旅順で)頂戴することはありません。

末の子に生まれた君のことだから、親の(かける)情は(上の子=私たちにかけるものよりも)優ったけれど。

その親は(弟君に)日本刀を握らせて人を殺せと教えましたか。

人を殺して死ねよといって、(数え)24歳まで育てましたか。

どうしたら、記事に表れたNHK記者、大阪放送局の小野明良の筆致が与謝野晶子から出てくるのか、まったく理解できません。

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「君死に給ふ」がポイントです。「君死(に)」というタームが当時(1904)にあったかどうか調べ切っていませんが、「天皇大君のために死ぬ」がかかっています。そう読まれることを許容して踏み込んでいる。たりめーですよ。与謝野は天才です。同時に、弟に「給う」という敬語をかけている。「なさる」という敬意と、「(天皇大君のために死ぬことを)いただく/頂戴する」の給う(いわゆる謙譲語)が掛けてある。

「弟よ、明治大君のための死を(旅順で)頂戴することはありません」「親はそんなこと教えていないでしょう」「姉は小さい頃からいままでずっと弟君のことを大切に見ていました」ということをさらっと隠微に歌っている。

だから、大町桂月が反応したんです。

jinbutsukan.net

>>1 の姉です。このたびは弟が旅順で命の危機にあると知ってスレッドを立てました。

そういう歌。やれやれです。高須克弥逮捕💕

おれのくーちゃん

くーちゃんには男の子の兄弟がいたと伝わる。いまどこにいるかはわからない。保護された辺りはよく出没する場所で、兄弟も同じく保護されたと聞いた覚えがある。もらわれて、幸せに暮らしていることを信じたい。

この前、健康診断にお連れしようとして興奮させてしまったことがあった。丁寧にかごに収め、タオルケットにくるんだ。衝撃を及ぼさないようにゆっくりと戸を開け、玄関をまたいだのだが、しきりに鳴いて訴えて、これはよくないというテンションになったのを見て、引き返した。かごを下(おろ)すとくーちゃんは一目散にロフトに駆け上った。距離をとって謝りながら追う僕を、くーちゃんは悲しそうな顔で見てシャーといった。それから下に降り、カーテンの陰、はなちゃんの後ろに引っ込んだ。家に見慣れない人を迎えたときにくーちゃんが見せる不安そうな瞳と表情をしていた。はなちゃんはいつもにもまして僕にシャーをした。再びロフトに隠れた後でくーちゃんは許してくれたが、僕のショックは尾を引いた。いまも消えていない。

有事の際、当人(僕)にとってはおおごとでも、大したことのないかのようにへらへらと腰を引く父親のことが思い出された。僕はここが勝負どころだと思い、決してそうはなるまいと、また、ならないのはくーちゃんのおかげだと思って、ひたすらに頭を下げた。絨毯に這って頭を擦り付けた。世界は終わったと思った。

仲直りをして(くーちゃんが鼻を舐めに歩み寄って)くれた後で、気づいたことがある。それは、くーちゃんもまた、ごんや兵十や僕と同じように、本来的には「ひとりぼっちの」ということ。そしてそれは、いまとなっては戻ることの許されない、ポイント・オブ・ノー・リターンの向こう側にある孤独である。あのときあのまま外に、健康診断にお連れして、万一のことがあったら、それは火縄銃で撃っていたに等しい。玄関口、僕は上がり框にいた神のご加護によって、間一髪で難を逃れたことになる。

そんなわけで、近くにマンションを買うことをかなり具体的に考えていたが、しばらくは見送ることにした。くーちゃんが、「ここがいい」と伝えてくれているから。「何が不満なの」と、悲しげな瞳に書いてあったようにも思う。

おれのくーちゃん

外が異様に暑くて身に危険が迫るというので今日は在宅リモート。くーちゃんはおれのPCデスクの右手、窓際の風を通してある敷布の上でお休みと、たまに床に降りてきての涼みを繰り返している。おれがいないときも、きっとこんな感じなのだろう。くーちゃんは、おれがいないと生きていくのは難しかろうから、生涯、お仕えする。その気持ちに偽りはない。一方で、くーちゃんはおれのことなど忘れて、はなからいなかった世界で幸せに生きたほうが似合っている。おれが「おれのくーちゃん」と呼ぶの(行い)は、その瞬間の、立ち上る穢れであり、原罪だ。この原理原則は動かない。ヒトのネコ界への組織的関与は近代(近世以降か)の歴史を伴った、明らかに構造的な問題である。しかしそれとて、組織や構造の内側にあって、個として丁寧に立場を表明することは、斯く、いかようにも為し得る。