何を引用しても、論旨も、結論も、変わりません。
nekohanahime on Twitter: "ちょうど同じことをつらつらと思っていまして(専属文芸評論家として)、「ロベルト・ペタジーニやね。すきすきー🐈💕」って、ひみつノートに温めていました。圧倒的全面的100%賛同します。酒贈る(www) / “「女」について - 関内関外日記”
https://twitter.com/nekohanahime/status/1378664625059680256
僕は黄金頭さんの呼称する「女」さんが、彼の作家としての源泉のひとつだと、ほぼ、確信しています。
彼(黄金頭さん)が、(改めて)すごいなと思ったのは、呼称に終始しているところです。そこから出ない。
おれのブログに、おそらく20年近く登場している「女」について、その書き方について書く。
実は、敬語も同じです。呼称、書き方に留まって離れないというのは、敬語そのものに瓜二つの発想法です。
例えば、よく引き合いに出される「ねこにご飯をやる」「ねこにご飯をあげる」問題ですが、1970年ごろにすでに見坊豪紀先生は、一面において、「当人同士がよければそれでいい」「呼称を含めて敬意『関係』というのは、呼び手と呼ばれ手の問題」(意訳)という認識を記していらっしゃいます。
この卓見に従えば、それ以上のことに当事者以外が言及する意味はない、ということになります。
*
一方で、そうはいっても、やはり、黄金頭さんが「女」と記されると――黄金頭さんが一人称に「おれ」を用いられて、読み慣れたいまなお、どきっとするように――、どきっとします。その異化作用(シクロフスキー)は、有効です。やめて、とか、改めて、とか、そのような働きかけを意味するのでは、一切ない。その「おれ」(黄金頭さん)と「女」(女さん)との関係は、見坊豪紀風にいえば、「当人同士がよければそれでいい」「呼称を含めて敬意『関係』というのは、呼び手と呼ばれ手の問題」です。どきっとするのは、読み手の感受性の問題です。
*
とはいえ、黄金頭さんは、ご自身の「武器」=表現技法、の切れ味(「女」さんの呼称を含め)に、たまに、無自覚と見えるところがありますよね。そこが彼の魅力です。
*
話を戻して、例えば「女」という呼称に出会ったとき、読み手が自らの感受性を問い直し、黄金頭さんのような、豊かなテキストを産出すればいい。
自分の話で恐縮ですが、僕なら、「ねこ」といいます。あるいは「くーちゃん」と、呼称します。だから僕のブログは本質的に「おれのくーちゃん」のタイトルを持つもの以外は、味や、価値が劣る。やっぱり、黄金頭さんのブログ記事に「女」さんが登場するときは、読み手のこちらも、何というか、身が引き締まる。それは書き手である黄金頭さんの力量、異化作用が、けた違いだからです。
*
専属文芸評論家として、そこは、もうちょっとこの、ご自身の力量に自覚的、抑制的であってほしいと思わないでもない。そもそも、黄金頭さんはご自身が思うより、ことのはの力の強い方です。その上で、日々の鍛錬を欠かさない。
斯く、抑制的になってほしいとは書きましたが、と同時に、やっぱり、そのままで、僕らはふたり(黄金頭さんと「女」さん)の行く末を、願わずにいられない。
なにかもっとよい書き方があれば、教えてほしい。
これがまた極めて、黄金頭さんらしい。つい先刻まで、高須克弥と田中孝博さんの話をツイキャスでしていたのを、どこかに置いてきてしまったくらい。
ここで黄金頭さんは、真摯に、そう(教えてほしいと)思っていらっしゃる。黄金頭さんに「女」の「なにかもっとよい書き方」を教えられる人が、どれだけいるでしょうか。ぱっと思いつくのが、田村隆一、澁澤龍彦、虫明亜呂無、くらい。
*
僕が(将来的に、あるいは文学史的関心から)知りたいのは、ひとつだけ。黄金頭さんの書くものに、どれくらい、どのような、影響を及ぼしてきたか、あるいはいま現在、影響(滋養。村上春樹風にいえば、滋味)を及ぼしているのか。
*
もうちょっと、できれば、たまに登場してくれたら、うれしいです。こうして、書き手の感受性の本質に触れるキーワードを、露出させ、論じることを許してくれる機会や、そもそも、そのような書き手と出会えることは、滅多にあるものではありません。
*
僕はツイートしました。
ひみつノートに温めていました。圧倒的全面的100%賛同します。酒贈る
これから、発送します。
2021年卯月
船橋海神🐈💕