illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

明け方の街/本牧あたり/そんなとこにいるはずがないのに

横浜市体育館、本牧伊勢佐木町、横浜港、沖仲仕を監督する父親、河合ジム、上大岡、桜木町、石川町、元町。

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山際淳司、初期のとある名短編に出てくる地名と固有名を、ほぼ登場順に並べてみた。おそらく、誰の何というタイトルの物語か、すぐにピンとくる人は僕以外の誰にも、いないのではないかと思う。

そういう時代に、なってしまった。

昭和23年に横須賀で生まれた山際淳司は、昭和55年(1980年)の「江夏の21球」で綺羅星の如き存在を放つことになる、その前後に、いくつかの習作、傑作を世に送り出している。それらの作品を集めて編んだものが、角川文庫の《スローカーブを、もう一球》だ。

ちなみにこの表題作は、つい先日、若くして惜しまれつつ亡くなった、群馬県高崎高校の川端俊介を描いたものである。

スローカーブを、もう一球 (角川文庫)

スローカーブを、もう一球 (角川文庫)

 

僕は北関東、内陸栃木の宇都宮郊外に、オイルショックの翌年に生まれた。まだ、宇都宮市役所観光課による、餃子での町おこしが始まる前の話だ。

宇都宮には海がない。本屋は、わりとあった。本好きの祖父母、父母のもとに生まれ、父親の書棚に無造作に置かれていた山際淳司作品を見つけたのが昭和60年(1985)年、阪神タイガース優勝の年で、僕はそのころ、菅原孝標女のように、テキストでスポーツを読み味わう病に取り憑かれはじめていた。

海老沢泰久(「監督」「みんなジャイアンツを愛していた」)の味を覚えたのも、同じころだった。全共闘崩れの父親は、「挫折」「倉橋由美子」と朝に晩に子供にとっては摩訶不思議な言の葉をもらしていた。

彼はそのように、時代を見通す目は不確かだったけれど、書物に対してだけは、なぞの嗅覚が働いていた。

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18歳で上京して、僕はしばしば、海を見に出ていった。そのほとんどは、横浜港方面である。栃木には海がない。いちばん近い海といえば、茨城の大洗か阿字ヶ浦、もしくは、福島茨城県境の勿来だろう。好きな海岸だが、自分たちのものという気がしない。杉山清貴や、サザンを聞いて、僕は海が近くにある暮らしを思った。実家で「あぶない刑事」を喜んで見ていた影響があったかもしれない。

FIRST FINALE CONCERT [DVD]

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あるいは、一本杉球場。これは多摩市にある公園球場で、横浜ではないのだが、江夏豊引退試合を行ったことで知られる。

一般財団法人 東京都高等学校野球連盟 球場案内

山際さんも、万感を込めたエッセイを残している。北関東の読書好き、マイコン好きの少年は、東京は秋葉原しか足を運んだことがない。多摩は横須賀の少し北、くらいに思っていた。

のち、平成15年頃、海外駐在から戻った成田空港で、さて、これからどこに住もうかと考えて、頭に浮かんだのが、この一本杉球場の近くということだった。多摩センターからバスで桜並木を通った先に、僕が短いあいだ暮らしたアパートと、球場がある。とても美しい、淡い薄紅色のアーチは、いまだに思い出して、ふと放浪漂泊を誘われることがある。

野球雲の見える日 (角川文庫)

野球雲の見える日 (角川文庫)

 

江夏は、1985年1月19日に一本杉球場で行われた引退式のことを忘れることができないだろう。

ブリュワーズのキャンプに参加した江夏は、結局のところ、メジャーには残れなかった。キャンプの後半になると、毎日誰かが荷物をまとめてロッカールームを出ていく。登録枠に残れるか否か、厳しい選別が始まる。江夏はいくつかの関門をくぐり抜けた。キャンプ終盤のオープン戦にも参加した。しかし、そこまでだった。オープン戦で、カリフォルニア・エンジェルスのスラッガーレジー・ジャクソンと対戦したところで江夏はもう投げなくてもいいと通告された。

……彼は折にふれ、思い出すにちがいない。

「……胸を張って、マウンドにあがり、胸を張ってマウンドを降りてきました。江夏豊はいつでも胸を張って野球をやってきました。……」

一本杉球場のホームベースのあたりに立ち、マイクに向かって、江夏はそういったのだった。

その言葉が、まだどこかでこだましているような気がする。

山際淳司「一本杉球場にて」角川文庫『野球雲の見える日』P.212

僕は、この「こだま」を聞くために、多摩センターを選んだのである。果たして、こだまは、まだそこで木霊していた。

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震災と、二度目の短期海外駐在を経て、戻ってきたときに選んだのが江戸川区の篠崎というところだった。やっぱり、運動公園の近くを選んだ。僕自身も自転車を漕いだりした。土日には草野球を見たり、なにもない芝生でぼんやりと過ごしたりした。

写真は、鹿骨(ししぼね)公園である。

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鹿骨のアパートは、家賃が格安で、またいつ何どき、海外出張を命じられても手短に動けるようにと、成田と羽田にアクセスしやすいところを不動産屋さんに選んでもらった。またこれは暮らすようになって知ったことだが、最寄りの篠崎駅は新宿へのアクセスもよく、篠崎からでも、隣の始発駅本八幡からでも、朝方座れるのは助かった。

街も、僕を受け入れてくれるように思った。

父との不仲で実家を避けるようになってから、多摩センターの次に、日本にもいい街があると思えた土地柄である。いまだに、駅近くのたぐち珈琲店と、鹿骨のパン屋さんと、酒屋さんには足を運ぶことがある。

www.taguti-coffee.com

たぐち珈琲さんでは、ずいぶんと、豆を入れる麻袋をいただいた。いくつかは靴下入れになり、別のいくつかは、ねこちゃんグッズをしまう袋となって、いまの住まいの収納に大きく貢献してくれている。

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篠崎/鹿骨に暮らしていたころ、僕は40歳を過ぎたあたりだった。死の想念が本格化していた。江藤淳の「自裁」が、妙に腑に落ちるように感じられていた。

しかし一方で、生への執着も激しかった。

もっと正直にいってしまえば、僕は、2002年からこのかた、自分がライフワークとしてきた、ある物語を書ききらなくては、あるいは、書ききったらどこか遠い街―なぜか地中海の島のイメージがあった―で野垂れるのだという想像を梃子に、日々をやり過ごしていた、ように思う。

その「物語」が何であるかは、いまさら書くことはしない。僕は、あまりの書けなさに途方にくれると、大沢誉志幸を、岡村靖幸iPodで耳の奥に押し込み、暴れさせながら、船橋の港に出た。砂浜に、実際に手をついて、そのまま潮の満ちるのを待ったこともある。

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船橋は、とてもいい街だ。神社があり、歓楽街があり、ヨーカドーがあり、少し前までは西武百貨店があった。朝、シャポー口の前にダチョウ倶楽部と見紛う某元首相が立って「いってらっしゃい。おはようございます」「ご苦労さまです」と握手をしてくれることもある。

時間帯と風向きによっては、山の手に近い、ここ海神にまで、磯の香りが漂ってくる。家に戻れば、ねこちゃんたちが待っていてくれる。そう、今の部屋を選んだのは、少し手広くて、家賃がリーズナブルで、ねこと暮らせるところを不動産屋さんが引き当ててくれたから。

そんなことを、ひとつひとつ思い返し、《生のやり方》を復習して、海水と砂のついた手を払い、僕は湊町から山の手までの道のりをすごすごと引き返す。

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そんなあるとき、僕は、はてなに棲息する、ある文人の存在を知った。お名前はそれまでも存じていたけれど、彼の書く文章が、本格的に身体に入ってきたのは、ここ数年、2014年以降のせいぜい5年のことである。しかしそのわが身体への入り方は、静かで、激しいものだった。

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冒頭、本牧桜木町あたりの謎掛けをした。これは「ザ・シティー・ボクサー」という、春日井健というボクサーを描いた山際淳司初期傑作選のベスト3か、ベスト5に入る物語に出てくる地名を列挙したものである。

住んでみたいのとは、違う。どんな人が住んでいるのだろうというのには、興味がある。関内駅というのが、どうやらあるらしい。

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僕は自分の作品を何とか形にするにあたって、その、《ある文人》の物語をリファレンスにさせていただいた。彼はどうやら、田村隆一を、石牟礼道子を好むようだった。おそらく父上の影響で、諸事雑学、とりわけ競馬やボクシングに高い関心を示し、そうして、文章が上手だった。

こんなにスポーツを、随想を、孤独に書こうとしてストイックに上り詰めようとしている同時代人を、僕は僕以外にそれまで見たことがなかった。それもまさか、少年時代から憧れて想像してきた横浜あたりのドンピシャリの場所に、そんな書き手が暮らしているなんて。まさか―

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みなさんもご存じのように、彼の文章は、紛れもない本物である。ちょっとやそっとの修練、積み重ねでは、上ることのできない峻稜に対し、彼は一途に単独登攀を繰り返している。

日記と作品群を漁るように読み、そのことを確信した僕は、(リファレンスとして機能してくれたことへの恩義も込めて)少し年下の彼に、必死になってラブコールを送った。手紙を書いた。酒を贈った。コンタクトを取り付けた。

そうして、彼の第一作品集を、僕と同じかそれ以上に彼の文才の魅力にとりつかれた編集担当の方と協力して、先日、世に送り出すことができた。

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関内関外も、「わいせつ石こうの村」も、住みたい、住んでみたい、住みたかったというのとは、ちょっと違う。村は、いちど訪ねてみたいとは思うけれど。

ただ、船橋の港から、西方を見た、やるせなくて見やったときに、その街は、彼は、いつでも、そこにあってほしいし、これからもきっと、いてくれるだろう。

一方で勝手な願いでは申し訳ない。そこで、来る2020年には、後楽園かどこかのボクシング観戦に、招待したい。

あるいは、僕自身の取材過程で得た、とっておきの伝手をたどって、大橋ジムのリングサイドでも―

そんなことを、企んでいる。

One more time, One more chance

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by リクルート住まいカンパニー