illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

ねこの好む場所について

江國香織「デューク」の優れた意匠のひとつは、銀座にあるという小ぢんまりとした、初夏をモチーフにした古代インドの細密画を飾る画廊の話をはさんだことだろう。思春期に「デューク」を初めて読み、17歳で東京に出てきてからというもの、私は銀座の柳の陰を、路地を、ネオンの隙間を覗き込んでは、いつかはきっと目当ての画廊に巡り会えるはずだという願いを支えにして生きてきた。

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今日、ようやく、阿豆らいちさんの個展に足を運ぶことができた。

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らいちさんと直接お目にかかるのは2日前の木曜日が初めてだった。銀座のライオンビルで、1Fの受付で店員さんに話しかけた私の声を耳聡く聞きつけ、

「その声は船橋さんでしょう」

と階段を降りてきて下さった。

そのオフ会のようなところでは、テーブルのお誕生席と対角線の向こう側のような位置関係になったこともあって、あまり密に言葉を交わしたのではなかった。だから今日の画廊訪問が実質的な差しでの初対面ということになる。

といいつつ、私は彼のツイキャスを全裸で待機し、彼は彼で私のツイキャスでのぼやきを全裸でふらっと聞きに来てくれるから、私たちはサウナの同じ水風呂に、相手とは知らず目隠しで浸かった間柄といえないこともない。

いつまでも長居のしたい画廊と作品展であった。

10月にしては暑い外気から守ってくれる、それは温調と照明の行き届いた白い長方形をした香箱の内側だった。ねこはそのようなほどよい場所を、ほとんど本能的に好む。

らいちさんは来客ひとりひとりに丁寧に、適度な距離感を保った挨拶を交わして巧みに物販に持ち込んでいった。その飄々とした強かさを、私はにまにましながら眺めた。

人の足が落ち着くと、脇に立てたギターを奏でてオリジナル曲を歌ってくれた。合間には、フリーランサーとしての柔らかくて強かな軌跡を、きらりんと放つ逸話を披露してくれたりもした。

そして四方には、絵が、ファンアートが、洒落た一言と共に配されていた。

雄弁に過ぎず、寡黙でもなく、内容や意味ではなく、洒脱が、技が、淡い色合いが確かな、見慣れたシルエットと共にあった。淡い色合いは、平安人が、私が、もっとも好ましく思う視覚のひとつである。

私は批評ということを思った。

小林秀雄を引くまでもなく、近代のこと文芸批評は作家や作品と批評家の間に断絶がある。モーツァルトと小林の間には、およそ150年の隔たりがある。さらに小林と小林を読む私たちの間には早半世紀以上が横たわっている。

モーツァルトは小林を知らないし、小林は私たちを知らない。そのような近代批評の基本条件は、例えば連歌を好んだ丸谷才一を悲しませた(連歌は、車座になって行う言の葉のファンアートに近い)。

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らいちさんの個展と批評の関係は、違った。行く人行く人がその数時間後にはレビューを公開する。それをほとんどリアルタイムで作家であるらいちさんが読む。喜んで読み、別の来訪者と語り合う。来訪者はさらにレビューを記す。湧水が泉を満たすころに、銀座ライオンで宴が執り行われる。その熱が乾ききらない間に、おびき出されるようにして、私もまた、足を運んだわけだった。

それは実に不思議な、現に実在する、シンクロニシティだった。

明日になれば、夢は跡地となって、インドの細密画が飾られていたのか、近未来都市をランサー片手に生き抜く兵の虹色が飾られていたのか、柳通りを行く人には縁遠いものとなるに違いない。

「思い出は蒸気のようなものだ」と、かつてジョージ・フォアマンの言葉を引いて山際淳司は静かに語った。「その中にあって、消えないものを、僕は大切にしていきたいと思う」。

らいちさんの変わらぬご活躍を、東京湾のこちら側から祈りたい。

(2019年10月、船橋海神、全裸漢道)