illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

古市アドミッション記念特大号その1/2

第161回(2019年上半期)芥川賞の選評から、古市憲寿「百の夜は跳ねて」に各選者が言及した部分を引用し、並べることにより、鑑賞する試みをしたいと思います。

小川洋子、髙樹のぶ子、奥泉光山田詠美島田雅彦川上弘美宮本輝吉田修一堀江敏幸、以上9名の中から、今回は島田までの5名の評でお届けします。

古市アドミッション記念特大号その2/2 - illegal function call in 1980s

(引用はすべて「文藝春秋2019年9月号」P.326-335から。)

小川洋子

『百の夜は跳ねて』。卑屈な主人公を、最後、母親のもとへ戻すほどの凄みが、老婆にあったかどうか。そこが引っ掛かった。無理矢理、作者の計画した地点へ着地させた印象を拭えなかった。

高樹のぶ子

『百の夜は跳ねて』は、前回の候補作より完成度を上げたが、ガラス拭きの肉体労働と、その主人公の想念がどうも融合していない。冒頭に、生まれることも死ぬことも出来ない島の説明があるけれど、命の問題というより、いかにもお洒落な記述に見えた。作者にとって、本当に切実なものは何だろう。

奥泉光

今回自分が一番推したのが古市憲寿氏の「百の夜は跳ねて」だったが、選考会の場で評価する声はほとんど聞かれず、だいぶ弱った。参考文献の利用の仕方を含め、小説作法がやや安易ではないかといった意見には頷かされるものもあったけれど、外にあるさまざまな言葉をコラージュして小説を作る作者の方向を、小説とは元来そういうものであると考える自分は肯定的に捉えた。主人公の就職事情や、母親との関係といった、いかにも「小説」らしい部分には感心しなかったものの、複数のかたりの交錯のなかから、都市空間の「手触り」ともいうべきものが浮かび上がるあたりは面白く読んだ。

山田詠美

『百の夜は跳ねて』。いくつも列記されている参考文献の中に、書籍化されていない小説作品があるのを知った。小説の参考文献に、古典でもない小説作品とは、これいかに。そういうのってありな訳? と思ったので、その木村友祐作「天空の絵描きたち」を読んでみた。

そして、びっくり! 極めてシンプルで、奇をてらわない正攻法。候補作よりはるかにおもしろい…どうなってんの? 候補作に関しては、前作よりも内面が丁寧に描かれていて豊か、という書評をどこかで目にしたが当然だろう。だって、きちんとした下地が既にあるんだからさ。

いや、しかし、だからといって、候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっと、ずっと巧妙な、何か。それについて考えると哀しくなってくる。「天空の絵描きたち」の書籍化を望む。 

島田雅彦

古市憲寿の『百の夜は跳ねて』は高層ビルの窓拭きを通じ、そこに住む人々の群像劇を展開しようとしたところはよかったが、語り手は窓の内側より、窓に映る自分の方により関心が高かったようで、前作ほどではないが、ナルシスト的私語りが中心で、リアリティ構築に必要な細部も情報のパッチワークに終始しているのが気になった。それでも確実に進化はしている。

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