illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

広岡達朗その魅力をいま改めて

黄金頭さんの清川栄治のツイートに触発されて、YouTubeで「時の記憶 江夏の21球」を見ていたら、江夏が82年のプレーオフで「広岡さんに(バント作戦で)やられて」と半ばうれしそうに語っていたのに、さらに触発された。

YouTube広岡達朗で検索したら次が出てきた。

www.youtube.com

私は大学院に入った96年頃に、反時代的精神というかなりやばい病に冒されて、以来、日本のテレビをろくすっぽ見ていない。最後にちゃんと見たテレビドラマは「愛していると言ってくれ」である。95年の夏秋だった。豊川悦司の大きな手に励まされるように、私は卒業論文の準備と追い込みに、駒込にある東洋文庫に日参していた。

早朝から午前にかけて、気まぐれで応募した肉屋の解体バイトは長く続かず、もてあます時間を研究の時間にあて、本郷までの長くてゆるい下り坂を暑い中、走っていったことを思い出す。

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上掲の広岡の動画は2001年のもののようだ。海老沢泰久(2009年他界)は、当時まだ存命である。いくつかのことを思った。1978年から82年頃にかけて、当時30歳前後の海老沢泰久は精力的に、ジャイアンツや広岡に対して取材を行い、後のノンフィクション作家としての足場となる人間関係を築いている。その核となったひとりが広岡だった。 

みんなジャイアンツを愛していた (新潮文庫)

みんなジャイアンツを愛していた (新潮文庫)

 

うろ覚えで申し訳ないが、海老沢が広岡に取材を申し込み、初日の取材を終えたところで広岡から「これくらいの取材でわかったのか」と訊かれた、海老沢が「いえ…」とあいまいな返答をした。広岡は「そうだろう。ならば、明日も来なさい」と海老沢のことを促したという話を思い出した。

そこから、二人の付き合いが始まった。

この話は、もちろん、海老沢自身が、それとはわからないように、どこかに、そっと忍ばせるように記していた。広岡は、ジャイアンツを追われた後、35歳過ぎのころに、サンケイスポーツなどで自ら原稿を書き、デスクに書き直しを命じられたりしている。

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それはさておき、若い海老沢の残したエピソードと広岡の人物像は、彼の取材から20年が経った上の動画と照らし合わせてみても、いささかも揺らいでいない。そんなことがある(も)のか…と、海老沢に、広岡に、彼らの記憶力と律儀さ、生真面目さに感嘆するとともに、私はいまさらのように、自分の青年期の危機を救ってくれた二人に厚く感謝した。

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さて、時に、残月、光冷ややかに、そろそろ、動画を見ていただけただろうか。

私のエッセイは退屈に違いないが、広岡達朗という人物像の確かさは、確かである(変なにほんご)。ひとつ、海老沢の「監督」にも「みんなジャイアンツを愛していた」にも記されていない、挿話を発見したので、海老沢の守護霊を召喚して、私が書記訳を務めることにしたい。「終った」などは、海老沢の言葉遣いである。

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 1983年の日本シリーズはこうしてライオンズの4勝3敗で終った。逆転に次ぐ逆転の、球史に残るシリーズと呼ばれるようになったのは、後の話である。当事者は戦いの充実と、終えた余韻でいっぱいだった。そのことは、広岡も例外ではなかった。

 その、最終戦から数日後、広岡はヘッドコーチの森昌彦を伴って、北里病院を見舞いに訪れた。少し前に、川上が命にかかわる病に倒れたようだという噂が入ってきていた。広岡は日本シリーズの始まる前にできれば訪れたかった。それを思いとどまっていたのだった。

 球界には、野球シーズン、特に日本シリーズが終えるまでは、野球以外のことでマスコミを騒がせるべきでないという不文律がある。広岡はルールを守ることが好きなタイプだった。川上に対する思いと、ルールを秤にかけたとき、彼は後者を選んだ。

「おかげさまで、日本一になることができました」

 病床の川上に、広岡はそういって森とともに頭を下げた。川上の反応は意外なものだった。

「馬鹿野郎。なぜ負けなかった。お前たちはこれから何度でも優勝できるだろう。藤田になぜ勝たせなかった」

 川上と藤田元司の間には、藤田が現役晩年のころから、家族ぐるみの親しい付き合いがあることはだれもが知ることだった。川上の返事に、広岡は内心あきれ、腹を立てた。が、反論はこらえた。ここで何かを口にすれば、現役時代の二の舞になってしまう。察した森が「はい」と頭をもう一段、深く下げた。川上は横を向いて答えなかった。

船橋海神/海老沢泰久「続 みんなジャイアンツを愛していた」所収

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もちろん、私は川上哲治が嫌いなのだけれども、川上には川上の流儀でしか応えられないこともある。手抜きをして、自分の記事から引こう。

82年、広岡がライオンズを日本一に導いた年の正力松太郎賞選考委員の筆頭格であった川上哲治は、次のように述べたと海老沢泰久は伝えています。

「初めから、この賞に値する働きをした野球人は広岡ただ一人だと私は思っていた」

「許し合わないままでいる」ことについて - illegal function call in 1980s

元の出典は、前掲「みんなジャイアンツを愛していた」の、どこか

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そして、みなさん、先刻ご存知かもしれませんが、彼、広岡達朗の名誉のために私はひとこと蛇足を加えておきます。広岡は、(思いの外)律儀で、(思いの外)情に厚い、繊細で、おもしろい人物です。上掲の動画でも、83年の日本シリーズで初っ端2連敗したあとで、若いチームが帰りのバスでお通夜のような雰囲気になったのを察し、これは何とかせねばと、帰着したプリンスホテルでマイクを持って歌でも歌おうかとしている。

そんな、広岡のリーダーシップにいち早く目をつけた根本陸夫は、「広岡には私心がない。これと決めたら、若手であろうと何であろうと、とことん付き合って、これでもかというくらいに、基本を教え込む」というようなことを話していました。

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あやうく忘れるところでした。「セニョール・パ」が、そうした、裏面史に埋もれがちな、「おもろい」広岡達朗の人間像を伝えてくれています。おもしろいです。