illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

車谷長吉のこと(黄金頭さんのこと)

車谷長吉のことを、少しだけ話したい。

車谷長吉 - Wikipedia

増田に触発された。ありがとう、増田。

49歳ひきこもり歴15年の男性ですが結婚は可能でしょうか?

増田には悪いのだが、答えやアドバイスではない。むしろ、アドバイスにならないように書きたい。一方で増田のような気持ちのときに読む人生相談こそ車谷長吉だという気もする。貼っておくので、もし気が向いてくれたなら。

この人生相談はべらぼうにおもしろい。

車谷長吉の人生相談 人生の救い (朝日文庫)

車谷長吉の人生相談 人生の救い (朝日文庫)

 

引き合いに出して済まない、最近、人生相談で頓に名を上げた劇作家がいらっしゃる。私にいわせたらあれは大衆向けのソフト化された人生相談風にすぎない。車谷長吉の人生相談は、相談者を突き放し、内省に向かってしまう。私はその身勝手ともいうべき誠実さに、背を押されるタイプである。

*

車谷長吉を思い出したのは、車谷48歳、高橋順子49歳で二人が巡り合った話が頭にずっと残っていたからだ。せっかくの機会。ぜひ、一読いただけたらと願う。hon-bako.com

長吉から、恋文やら贈り物やらをもらった詩人、高橋の表現を、この「ほんばこや」さんの記事をお借りして、引用で並べてみたい。車谷の書物はすべて実家に揃っているが、高橋の著作はいくつかの詩集以外に読んだことがなかった。恥じて、「夫・車谷長吉」をつい先ほど注文したばかり、お詫び申し上げる。

*

「おかしなことになった、と私は思った。毎年、(大晦日には)その年にいちばん大切だと思う男友達に最後に会うことにしているのに、へんな人(車谷)に割り込まれてしまった。まさかその人がこののち生涯かけて大切な人になるとは夢にも思わなかった」

*

「…<赤目四十八瀧心中未遂>は30枚くらいの予定です』と言うので、じゃあ書き上がったらご連絡ください、と言って別れた。翌々日、長吉から緑色の卵に手足が生えたような、小さな雨蛙がはねている絵手紙が届いた」

*

「明けて93年2月、長吉から、『私は芸術選奨文部大臣新人賞を受けることになりました。・・・赤目四十八瀧心中未遂は、やっと100枚ほどが出来ました。本当に蝸牛の歩みです』と書いた葉書が来た。私はすぐにおめでとうの葉書を書いた」

*

「(車谷が『鹽壺の匙』で三島由紀夫賞を受賞し、『新潮』に載せた)『受賞の言葉』の中の『ある人』とは、高橋順子であるかもしれないし、他の人かもしれなかった。しかし詩の補註に高橋順子の名があるので、それと知らせているようにも思えた。冷静ではいられなかった。これで長吉と私の関係は変わらないわけにはいかなくなった。長吉としては、私への(決断を迫る)最後のメッセージのつもりだったろう」

*

「30年前のように、私から離れていく人を、引き止めたかった。(高校3年の時、愛を告白されると同時に別れることになった男子生徒との)遠い記憶の重力が働いて、私は長吉に手紙を書いた。『この期におよんで、あなたのことを好きになってしまいました』と。長吉のふところに飛び込むのは怖かった」

*

ここまでで、野暮はやめにする。私もいささか書簡もの、夫婦もの、馴れ初め、別れの物語は好んできたクチである。例えば、すぐに思いつくのは、以下。

母の恋文―谷川徹三・多喜子の手紙 (新潮文庫)

母の恋文―谷川徹三・多喜子の手紙 (新潮文庫)

 
檀 (新潮文庫)

檀 (新潮文庫)

 

あえて、高橋順子の言葉遣いから離れてみるために異なる書物の画像を挟んだ。

その上で、ここで、画面をスクロールして引き戻し、高橋のことばの末尾の一文だけを5つ続けてさらっと目を走らせてみてほしい。女心の移りゆくさま、震え、怯え、もはや引き返すことの敵わない芽生えといったものが、実に自然なふうに記されていることに気づくだろう。わいせつである。

余計なことをいえば、「小さな雨蛙がはねている絵手紙」を用意した車谷の姿にも、思いを馳せてみたくなる。そんな車谷の孤独を思い、私は励まされる自分を発見する。

*

もしよろしければ、もう1サイト、紹介したいところがある。

この世の苦を書き続けて

ただこれは、少々、車谷生来の毒が強い。うかつに、読まないほうがいいともいえる。私などは、まったくそのとおりだと思い、うんうん頷くばかりなのであるが、昨今はめったに見かけなくなった私小説本来の毒の、その由来の泥溜まりの話なので、お勧めはしない。

こちらの動画のほうが、毒気を抜いてあるので、いいかもしれない。

www2.nhk.or.jp

*

さて、薄々お気づきの方もいらっしゃるかもしれない。車谷長吉、地主が没落した家に生まれ、幼いころは勉強が出来、読書に目覚め、慶応大学文学部というところに入り、働きながら、金が救いです、生は四苦八苦ですとわが身を掘り下げ、吐露する、どこか力の抜けたような、それでいて確かな骨格と裏打ちを感じさせる文体などは、ある部分は私であり(自分でいうな)、私よりも、より多くの部分が、私には黄金頭さんに通じるようにも見える。

同時に私は、黄金頭さんの、車谷とは違うモダンさというものにも触れておきたい。

車谷は、播磨1960年代の土着と、それゆえの上昇志向にこだわり抜いた。黄金頭さんは、横浜湾80-90年代の空気を吸って育ったので、苦しいとおっしゃりつつ、その創作世界は車谷のほうに向かわない。エッセイは十分に車谷的である。しかし、「わいせつ石こうの村」に代表される舞台と登場人物は、土着を示唆しつつも、どこか都会的だ。

*

私は、長く車谷から三島由紀夫、(車谷も愛好した)嘉村礒多夏目漱石へと向かう近代文学史線が好きだった。一方で、三島から虫明亜呂無寺山修司山際淳司海老沢泰久丸谷才一辺りへと伸び広がっていく稜線も、好きだ。いま、前者を離れ、いささかの精神の健康を取り戻し、後者をたまにめくる程度の中途半端な読書人と化している。

そんなときに思うのは、私がこちら寄りに立ち戻って来られたのは、黄金頭さんのおかげということである。随筆で嘆き、私小説でとことん嘆いた車谷。エッセイで嘆き、物語でモダンを漂わせる黄金頭さん。

*

高橋順子は、車谷長吉のもとを訪れた、黄金頭さんの造形「おまん」その人ではなかったろうか。

夫・車谷長吉

夫・車谷長吉