illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

野暮などは申しますまい補遺ばかり

野暮は申しますまいが補遺をひとつふたつ。

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談四楼さんもすっかりお年を召されて。51年生まれ。

それは置いておき、戦争と落語の話です。たまたま、ぱらぱらとめくっていた小島貞二

こんな落語家(はなしか)がいた―戦中・戦後の演芸視

こんな落語家(はなしか)がいた―戦中・戦後の演芸視

 

昭和中期の芸談としてとても面白い。中でも、柳家金語楼(山下敬太郎)の弟、昔々亭桃太郎(山下喜久雄)が、戦時中、東條英機にしばしば呼ばれて落語をやらされた。桃太郎は太鼓持ちが非常に巧みで、東条英機にさんざんゴマをすったものだから、もうこれくらいしておけば赤紙は自分のところには届くまいと半ば期待をしていた。

それがあてが外れて召集令状が来て(昭和18年)、山梨の連隊に呼ばれる。前日、陸軍病院に慰問に行って、「えー、わたくしも明日、みなさんの仲間入り出来ることになりまして」なんてヨイショをして、それで、満州からシベリアを経て昭和22年に復員。

昔々亭桃太郎 - Wikipedia

東条英機といえば昭和の文人やジャーナリストにすこぶる評判のわるい、例の竹槍事件。37歳の老兵、新名丈夫を懲罰召集し、まあ、少しお読みになればおわかりいただける。縷々書いておいて、また、大切なことでもあり恐縮なのだが、こちちが本題ではない。

竹槍事件 - Wikipedia

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談四楼さんが演ったという隼の七。

浅草寺参詣帰りの「旦那」が見知らぬ男に突然、持ち物のキセルを譲ってくれと頼まれるという、シチュエーションドラマのように開幕する。実はこの男は名前を「隼の七〔はやぶさのしち〕」という巾着切りすなわちスリで、この男がいかにスリから足を洗い更生するかというのが噺の佳境である。

新装なった名古屋市公会堂で愛知憲法会議主催「市民のつどい」に参加した - しいたげられたしいたけ

隼の七と聞いたらおれは黙っちゃいられない性分なんだ。

貰い子だったからかどうかは知らないが、桂三木助 (3代目)は若い頃、荒れに荒れた暮らしを重ねる。戦争末期から戦後すぐにかけて橘ノ圓(まどか)を名乗るが、日本橋界隈の賭場で「隼の七」と聞けばだれもが知る。歳にして45歳くらい、そのやくざ者が、ふた回りも歳の離れた、かつて踊りの師匠を務めていたころの弟子、仲子とどうしても結ばれたいというので彼女の家に行き談判に及ぶ。

25歳年上の博打好きに嫁がせることは出来ないと考えた仲子の家からは、「三木助を継げるような立派な芸人になれたら。」という条件を出した。どうせ出来まいという気持ちが、仲子の家の方にはあったのだろうが、彼は心機一転、博打を止め(この心情を、後に三木助は「芝浜」の主人公の断酒に感情移入して語っている。)ついに3代目三木助を襲名し、二人も結ばれることになる。

名人への道を進んだのは壮年になってからで、「江戸前」「粋」「いなせ」という言葉を体現したような芸風で、とりわけ「芝浜」を得意演目とし「芝浜の三木助」と呼ばれた。

桂三木助 (3代目) - Wikipedia

これは褒めすぎというもので、三木助はあんまりうまくはないよ。声がいい。江戸言葉がいい。それらを寄せ木にした、本質的には「芝浜」だけに行き着くとおれは思う。その芝浜も、アンツル(安藤鶴夫)の手柄、というか、談志にいわせたらアンツルが芝浜をだめにした、貶めたってことになるのだろうが…。

翻って、wattoさんが足を運ばれた集いで、談四楼さんがどこまでしゃべったか(しゃべらなかったろうなあ)判らないが、ネーミング(隼の七)と、配役(更生する巾着切り)、道具立て(煙管-芝浜で印象的な役どころを見せる)といい、三代目三木助さんのことが念頭にあったのは間違いあるまい。

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いくつかYoutubeに上がってるけれど、枕、くすぐり、声の調子、これがベストかと思う。

www.youtube.com

野暮をついでに申せば、芝浜の枕に出てくる、三木助日本橋で暮らしてその湯屋に通ったというのが、「隼の七」時代。

おれが、前にも何遍か書いたけれども、23くらいのときに英語と漢籍をやりすぎて失語になったとき、何かのおりに、この三木助さんの芝浜のカセットに出会った。ひとたび聞くなり、夢と現(うつつ)の一切を、懐かしい言葉とともに了解、客席の子供の笑い声に促されるかのように、目から水がぽたぽたとこぼれ落ち、胸のつかえが下りた、おれはあのときに手で掴んだ感じをいまだに忘れない。