くーちゃんはおれを怖がらない。たいてい、遠くから見ているか、そばにいてくれる。いま、夜中にも、こうして足元で丸くなり、その柔らかい毛並みを呼吸に合わせて静かに波打たせている。
くーちゃんは、おれのことを好きな可能性がある。
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おれはくーちゃんを看取った後、それが15年後か18年後かはわからないけれど、激しく後悔するのだろう。なぜ、くーちゃんがおれを好きでいてくれたことを、真っ直ぐに認めなかったのかと。もっと、生きているうちに認めればよかったのにと。
しかし、それはできない相談だ。
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下僕に、くーちゃんの気持ちを推し量ったり、ましてや断定的にこうだと認識を放ったりすることは許されていない。くーちゃんの気持ちは、下僕が秘密の裡に、さまざまな否定を試した後の、可能性の態でしかありえない。在ることを許されていない。
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ロフトに上り、毛布の上で先に眠っているくーちゃんの背に、お尻に、額を寄せて下僕は横になる。するとくーちゃんは何ともいえない柔らかい表情で目を細め、ときに下僕を毛繕いしてくれる。下僕が下に降りると、少ししてくーちゃんは降りてきてくれる。そして伸びの姿勢をとり、お腹を見せて横になる。
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好きというのは観念。なぜ観念に頼るかといえば、それはくーちゃんと離れている時間に思い出し、支えにする杖だから。一緒にいるときには、「好き」の可能性に思いを致すより先に、「くーちゃん大好きだよ」と背を、頬を、額を撫でる、それだけで下僕の時間は満たされる。
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そうして、それゆえに、おれは思い出すだろう。「15年後か18年後」を思ったあのとき、一瞬一瞬に、おれがいかに、どれだけ、くーちゃんを好きだったか。くーちゃんの気持ちを推し量るよりも前に、そのことによって、どれだけ満たされていたかを。
そして、かつて確かに在ったはずの手触りが失われた未来、いまよりもずっとよぼよぼになったおれは、「もっと、生きているうちに認めればよかった」と肩を落とすのだ。
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おれは確かに神と和解した。が、その後にも、切なさは残るものなのだろう。くーちゃん。