illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

A sudden visit of early spring

実はここ数日、id:watto さんには何か一筆啓上しなくてはという思いがあった。おそらく彼はそのことに触れまいと思っていたらやはり触れなかった。

www.watto.nagoya

滋賀県立図書館の隣に、(旧)滋賀県医大が建っている。いまは滋賀医科大学という。

ホーム | 滋賀医科大学

滋賀県大津市瀬田月輪町。よよん君が入院していた。彼は由緒正しき不良の入院患者だったから、あるときは敷地内の公衆電話から、またあるときは電波のいいベンチから、はたまた、隣の図書館から、体調と相談をしつつ、当時(2002年)の2ちゃんねるにつなごうとしていた。それを黙認していたのが主治医の井上先生だ。滋賀県医大ではハンドボールの名手で鳴らした。

医者ってさ・・・

井上先生は、このスレッドには出てこない。瀬田月輪町に通い、ご本人にお尋ねしたところ、否定も肯定もしなかったけれど(守秘義務があるから当然だ)、間違いなく目を通していらっしゃった。井上先生は、よよん君にマルクを施す際に肺に穴を開けるという不始末をおかして、よよん君にブログで取り上げられている。彼はしかし、そのことを2ちゃんねるで取り上げられることをおそれたのではなかった。

「彼は、そんなことをする子ではないでしょう。一目でわかりましたよ(笑)」

と、井上先生はいった。

第5章:主治医 - セカンド・オピニオン(船橋海神) - カクヨム

では、なぜ、ときおり2ちゃんねるに目を光らせたのか。

それは、どんな些細な情報でも、自分の患者のことは見ておきたいと思ったから。そして、もうひとり、「血液グループ」を名乗る、謎の血液内科医のことが気がかりだったからだ。「血液グループ」なる人物は、2ちゃんねるでよよん君と知り合うなり、検索エンジンを駆使して入院先の病院と主治医を探りあて、深夜、入院先の病棟にLAN回線の早期敷設を求めて電話をかけてきた、そんなエキセントリックな人物だ。

「すばらしい先生です」

と、井上先生は「血液グループ」なる人物評を、僕にしてくれた。僕もそう思っていた。僕は取材ノートとインターネットを駆使して連絡先を探りあて、メールを書いた。

*

一箇所だけ、自著から、引用させてほしい。

ぼくが東京に戻り、待ち合わせの喫茶店にきてくれた血液内科医に披露したのは、女優と野球選手にまつわるひとつのエピソードである。

 ――ノーマ・ジーンという多感で恋多き女性の二番目の配偶者になったある野球選手は、不幸にも彼女とわかれることになったそのあとも、一途な愛情を失わなかった。かつての妻が別の男性と結婚し精神の安定をうしなったときには献身的な支えになった。

 その死にさいしては葬儀をとりしきり、それから30年の長きにわたって墓前には定期的にアメリカン・ビューティ、真紅の薔薇がささげられることになった。野球選手はスターではあったけれど自分の行いを誇らない人柄だったので、ファンから広く愛される存在だった。もちろん薔薇のことは自分ではけっして語らず、触れようともせず、新聞記者が水を向けたときには、ただかつての妻のことを称え、静かにほほえむばかりであったという。

 女優はいわずと知れたマリリン・モンロー。野球選手は名門ヤンキースの黄金時代を支えたジョー・ディマジオである――

「いい話だと思いませんか」

 集めてきた話のあらましに続いてこの話をした。そして、ぼくとしてはさりげないふりを装って探りを入れてみた。

「これによく似た話を、さいきん、西のほうのどこかで聞いた気がするんです」

第8章:くまとねこの酒場 - セカンド・オピニオン(船橋海神) - カクヨム

何人かの、お誘いした方が、僕と、よよん君の墓参りに同行してくださった。id:watto さん、id:aox さん、id:mikimiyamiki さん…そして、いつかはお墓参りにとおっしゃってくださる、id:yutoma233 さん。

けれど、今日のことは全くの不覚だった。

*

僕の書いた稚拙な物語は、関係者がそれぞれ、自分の犯したミスを故人、すなわちよよん君に申し伝える形式をとっている。とらせた。とっていただいた。高さ数10cmの取材メモから、そのように、選りすぐって、構成した。書いた当人である僕にもよくわからないのだが、この話は、なぜか、その方向を是として進んでいる。お母様はよよん君懐妊中の不用意なひとことをいまだに思い返しては悔いていらっしゃるし、井上先生はマルクの不手際を突かれるとおどおどした笑顔を見せる。友人も、お兄様も、お姉様も。

*

僕はこの物語を着想したとき、漠然と、この話は病-生の二項対立を相対化するものだという予感があった。

 木枯らしの吹く秋の日のように、ではなく、春の木漏れ日のように、人の生きる意味に思いをめぐらせることはできないだろうか。病める人もそうでない人も、互いに手を伸ばし、いまここで生きていることを確かめあえるような、何かうまい方法はないだろうか。

 いまここで病を宿している誰かに対して、「励まし」というオブラートで包みながらその実は「がんばる」ことを意識的にも無意識のうちにも強いてしまうのではなく。

「あんなにかわいそうな人でもがんばっているのだから、健康な自分はなおさら」と、どこかボタンをかけ違えた自分への動機付けをするのでもない、何か別のやり方で。

 きっと、あるのだとは思う。けれど、そんな「何か」をたまたま見つけたとして、その手応えをずっと手放さないでいるとなると、これがなかなか難しい。

 第1章:ふしぎな踊り - セカンド・オピニオン(船橋海神) - カクヨム

それはひとえに、当時(2003年)、僕の頭が、祖父母と母の病と介護と、それらからくる僕の鬱と、生への渇望と兆しに支配されていたからだ。と同時に、おそらくこの物語はそれでは完結しない、生それ自体を更新する、よよん君の明るさが基底にあるのだということもわかっていた。彼は次のように記している。

 この「逃病日記」は昨年6月に発症してしまった「急性リンパ系白血病」を治療するにあたっての、入院から退院までの出来事を読み物にまとめた物です。入院初期はどうなることかと心配もしましたが、なんとか無事に退院することができました。

 私は運良くトントン拍子で治療も進み、骨髄移植の為のドナーさんもみつかったおかげで、約1年で退院となりました。が、この病気(特に私がかかったタイプ)は骨髄移植ができなければ完治に至るのが難しいらしく、退院してもまた最初の入院時の状態に戻ってしまう事が多いそうです。実際、私と同じ頃に入院していた方はなかなかドナーがみつからず、退院中に再発してしまい病院に戻ってきてしまいました。

 私はドナーがいてくれた為かなり精神的に楽でしたし、完治して元の生活に戻ってやるという希望も持てました。しかしドナーがみつからず、ましてや再発までしてしまった彼の心境は私にはわかりません。それでも笑顔を絶やさない姿勢は尊敬に値するものと思います。

 彼だけでなく他にも大勢のドナーさんを待ち望んでいるのが現状らしいです。もしドナーになっても構わない、患者の希望になってあげたい、などと思ってくれた方、人それぞれの考えもあることです。それでも「やっていいよ」と考えてくれた方、ドナー登録していただけると幸いです。

 お世話になった医師、看護婦の方々、家族、そして見舞いに来てくれた友人達には心から感謝しています。どうもありがとう!

 …なお…逃病日記自体はこんなまじめにかいていませんので…読んだ後に怒りのメールを送るのはやめてね…。

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これが記されたのは、おそらく2001年晩秋から冬にかけて。よよん君が2ちゃんねるにやってくる数ヶ月前のことだ。彼は白血病が再発し、入院し、そして、2ちゃんねるにやってくる。確かPHSの64Kの細い回線だったはずだ。「医者ってさ」というタイトルで、研修医に対する愚痴を記してはみたものの、彼の愚痴はほとんど続かない。それは彼、よよん君が、他人を腐すような生き方や、ものごとの感じ方とはまったく別のところで育ち、それまで暮らしていたからだ。重篤な病気にかかっても、そのことはいささかも左右されない。
*

id:watto さんが滋賀県立図書館を訪ねた際、隣接する病院を訪ね損なったことを、いまごろ、よよん君は(笑いながら)天国のブログに書いていることと思う。ちなみに、僕はよよん君に会ったことがなく、その声を聞いたことがない。「血液グループ」を名乗る人は、ネットで会話を交わしたものの、「会いたい」というメッセージに応えて、滋賀県医大の入院先に足を運んだときには、10分15分の差で、病篤くなるよよん君とことばを交わすことができなかった。

どうぞ、帰り道、お気をつけて。