illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

暮らしを変えていくこと toward 2019

少し前から頭にあって、書こうか思いとどまるべきか揺れていたことです。

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ねこと暮らすと、生活が様変わりします。暮らす前(2015年2月20日以前)には、3割4割くらいが変わるかなと漠然と思っていました。日中は会社だし、家にいる時間は12時間として7時間は眠る、とすると5時間は意識をもってねこちゃんと接することになります。5/24=20.8%、これにねこのごはんやトイレのお世話といった付帯する時間がついて、3割4割の計算です。

この計算は、まったくの当てが外れました。1日24時間、ねこちゃんのことを考えています。希死念慮は、遠のきました。夜遊びもしない。部屋をまめに掃除するようになりました。いま、3歳7ヶ月のくーちゃんが、おそらく20歳までは生きる、ということは僕もそれまでは生きるでしょう。生まれてきて、ここまでこうして生き延びて、それが誤りだという感覚は消えません。しかし、誤りなりに、くーちゃんのことは守ります。

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暮らしの中に新しいものを受け入れ、刻印を是とすること。その刻印から、アメンボが水面を滑り波紋を散らすように、暮らしが影響を受け、それが新しい自分なのだと認識を改めていくこと。夜はスナックや悪所に長居するのが常でした。できるだけ家にはいたくなかった。放浪、放蕩していました。それでいて、どこにいても、居場所がなかった。

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ねこの表情は下僕の鏡です。くーちゃんは僕を待っていてくれます。くーちゃんが、暮らしやすいように、間取りや、ちょっとした配置(毛布、座布団、水を入れた容器、はしごからの落下防止柵…)を整えていく。とにかく、怪我のないこと、運動不足にならないこと、新鮮なお水を絶やさないこと、寒すぎず、暑すぎないこと、を柱に考えています。

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それから、今年を振り返ったときに外せないのが、食事のことです。

これだけ多くの男性諸氏が自炊をしないということは、暮らしの中に、自分が食べるものを自分で作る契機が、うまく収まる場がないということでしょう。それに輪をかけるようにして、「コストを削ぎ落とした外食には敵わない」といった怪しげな言説が纏わってくる。そんなことはない。自炊のほうが安いです。1人暮らしだって、安い。コストがかからないという意味と、心安い(安心)という意味の両方があります。

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問題はそのときに、だれの系統に自らを連ねるかということでした。中国の少し前の言葉に中体西用というのがあって、本体は自国中国は譲らない、西洋から採り入れるのはあくまでも用途、方便に過ぎないという中華ナショナリズムを象徴する19世紀に顕著な意識の働きです。料理の「用」(レシピ)は、飽きるほどそこらじゅうにあります。試しに作って、いくつかを覚えて、でも、10や20を覚えても、「本」たる暮らしにはなかなか根付かない。年初からの試行錯誤が、ようやく形になり、自分の暮らしは自炊とともにあると自然に思うようになったのは、11月に入ってのことでした。

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話を戻します。だれの系統に自らを云々…の途中でしたね。

やっぱり、僕はホマレ姉さんに戻ります。

www.homarecipe.com

たとえば、この記事。レシピもさることながら、大げさでも何でもなく、ひとつの文明開化史、西洋受容史です。

何年もずーっと選抜して病気に強いタネを採り続けてきたので、たぶん日本の気候に馴染んできたんだと思います。

何かで読みました、ホマレ姉さんは確か1997年の就農でしたね。僕が院に進んで、ウォーラーステインや厳復を手がかりに、アジアの知識人が西洋を受容する、その類型を自分なりに整理できたらと薄ぼんやりと夢想していた、その最初のころの年にあたります。歴史をやると、現実を見る目が離人症のようになって、同時代を歴史的に見るようになってしまうと、何人かの同じ病の人から聞いたことがあります。僕もそのくちです。いまここにある現代現実の話でも、歴史の文脈においたときにおもしろいかどうかで判別する傾向がある。

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ホマレ姉さんは、どこか歴史的に、ものをおっしゃるところがある、そう僕は感じています。そのことを最初に感じたのは、

www.homarecipe.com

この記事でした。以前にも引用しましたが、何度でも行います。

世代交代して、今食べている家庭は何軒あるのでしようか? 私も大好きと言うほどでもありません。でも、ズイキを食べると言うことを娘に伝えておかなくてはいけないと思うんです。

彼女が将来作るかどうかは別として、母が作って食べていた…ということを残してやりたいんです。皆さんも何処かでズイキを見かけたら、是非食べてみてくださいね。

この記事を読んだときには、ご病気をなさっていたことは、もちろん知りませんでした。

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2018年に、僕が、暮らしの軸に自炊がようやく収まるようになり、そのことをどなたに負っていたかは、きちんと書き記さなければならないと思いました。「用」は、いくらでもある。むしろホマレ姉さんは「用」の更新頻度は少ないくらいです。

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私(たち)は、レシピを読んでいるようでいて、それらを通じその背景背後にある息遣い、歴史性、語りのようなものに、耳を傾けようとしている。

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そこら辺のことを、先日、メシ通さんのイベントに呼ばれて、担当の方に話すつもりが話しそびれてしまいました。いくら「用」を重ねても「本」を揺り動かすには足りない。メシ通さんの記事に足りていないという意味ではなく、僕は、僕の指導教官がかつて好んでいた「理念の転轍手」という表現を借りて、自分のささやかな暮らしに、轍を(でき得る限り、よりしっかりと、十全に)跡づけておきたいと、そのようなことを思い願った次第です。