illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

黄金頭初期アンソロジー「さて、帰るか」解題に代えて(仮)

先の戦争が終わって満州瓦解の折、一人の噺家が着の身着のまま、食うや食わずで行き詰まっていた。デパートの柱によりかかり「いよいよだめかな」と思っていると、見ず知らずの紳士が歩み寄って声をかけてくる。聞けば、いつぞや、未だ事業に成功せざる前、噺家の話に勇気づけられたことがあるという。無論、噺家に覚えはない。

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噺家は紳士の進めるままに家に呼ばれた。やることがなかったからである。その道すがら、紳士はつなぎにパンを買って食べさせてくれた。ばかりか、紳士は自腹で牛肉を買い、それを噺家から家人への土産の態でとわざわざ持たせてくた。「地獄に仏とはこの人のことか」噺家は何と親切な人のいたものかと感激した。

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月とすっぽん鍋 - illegal function call in 1980s

まだ続きはある(月とすっぽん鍋2) - illegal function call in 1980s

これでお仕舞店じまい(月とすっぽん鍋3) - illegal function call in 1980s

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僕が黄金頭さんのテキストを本腰を入れて読み始めたのは2017年の春先だったと思う。精神は絶不調の極み、物語は書けず、けれど初めから救いと思って黄金頭さんを読んだのではなかった。「おれ」という意外に強い一人称と病の日常にそれまでは腰が引けていた。

それが虜になったのは「わいせつ石こうの村」を読んでからである。夢中になった、というか、あれはそのように人を夢中にさせる物語とは少し違う。何か古い叙情を携えている。例えば、引くならやはりここだろう――

その後、せっかく選ばれた魚拓は焼かれることになる。しかも、海の上、一艘の小舟とともにだ。小舟に建てられた棒のてっぺんに一番のわいせつ魚拓が掲げられる。小舟には島の女たちが摘んできた花々や、ぼくたち子供が集めたきれいな貝殻で飾られる。おまんという流れ者の女たちが、故郷の特産物だという小豆を供えたりもする。

やがて夕刻、日の沈む方向に、火の放たれたわいせつ魚拓の小舟が出航する。潮の流れで自然と沖に向かって進んでいく。それを見ながら、男たちも女たちも「ホトホト、ホダラク、ホーイホイ」と唱える。皆で唱える。唱え続ける。小舟も夕日も西の海も真っ赤に染まる。詠唱は小舟がすっかり沈んでしまうまで続く。

ぼくはときどき、あの不思議な詠唱を思い出す。今では売春宿も姿を消し、島はわずかな釣り人相手にほそぼそと生計を立てているという。わいせつ魚拓職人もたぶん跡継ぎがおらず居なくなってしまったに違いない。

第3話わいせつ魚拓の村 - わいせつ石こうの村(黄金頭) - カクヨム

僕は、これが読みたかったのだと思った。言葉の運びに無理がひとつもなく、「わいせつ」という以上に、いや、わいせつさは本作には欠片もない、夕暮れの海の景色が、語り手の感じるように伝わってくる。

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そのような無理のなさで物語を感じさせてくれる話は、とりわけ近年は《なぜか》ほとんど見かける機会がない。僕は「わいせつ石こうの村」を読んですぐに書棚から宮本常一の「忘れられた日本人」を取り出し、「土佐源氏」をめくった。

僕は、宮本の読者でいることの至福を思った。そして、僕よりも数歳年若いと思しき、ツイッターの自己紹介を「やりとりはしません。」で結んでいる、謎の人物に興味を持った。

彼は田村隆一を読んでいた。他にも僕が敬愛する詩人やノンフィクション作家の著作を挙げていた。僕は僕のほかに同じように田村隆一を捉え、僕よりも圧倒的に練れたスタイルで日々その日常を沈鬱に、しかしそれでいて過度の自暴に陥ることなく、日常を読者よりもまず先に自分に書き綴り、それでいてその姿が読者の励ましになるような書き手が――まさか、そこには、あり得ていた。

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僕自身、そのような生き方を何度も目指しては諦め、金を稼ぐことと本を読むこととの間で往復運動をしていた。だから僕は未だに中途半端だ。黄金頭さんは違った。病が、彼のそのようなストイシズムを形成したのかと当初は漠然と思っていた。しかしその感じ方はいい意味で外しているだろう。少なくとも、当人を前にして病が文学を方向づけたという表現は、彼がこれまで歩んできた道のりに対してフェアではない。

彼はもともと本を読み、思索し、言葉を紡ぐタイプの人間なのだ。先日亡くなったさくらももこがデビュー前に「りぼん」に載る矢沢あいに紙面越しに語りかけるシーンが話題になっていたが、僕が感じた構造はそれにけっこう近い。

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僕はそれまでものを書くことにそれなりの自負を持っていた。いまでも持っている。正確にはここ「はてな」で嘆きながら紡ぐことによって、自分なりにカタルシスを得て、少しは書けるようになった手応えをようやく感じ始めている。

黄金頭さんのうまさは、そういう自意識には向かない。読むこと、書くことに対する純度が、僕よりもおそらくずっと高い。話すように、声が聞こえるように、ジャブをフックをストレートを繰り出すことが、どれだけ難しく、現代ではまず見られない至芸であることか。

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僕が自分の詩作を諦めて、この人のバックアップに回るのが天命かもしれないと思うようになったのは、そのような経緯である。「セカンド・オピニオン」をどうにかこうにか形にしたその最中(さなか)にあって、「わいせつ石こうの村」と彼の日々の断章は、僕にとって最高のリファレンスとして機能した。書き終えたら、マルタ島かどこか地中海の島に飛んで、有り金が底をつきたら路上で野垂れようかと構想していた僕は、少しだけ自分の延命を思った。

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冒頭に紹介した噺家は次のように述懐している。

数年後、石田が帰国した。志ん生は家捜しに走り、毛布などを石田の家に持って行った。

それでも気のすまない志ん生は石田宛てに手紙を認(したた)めた。

「どんなことがあっても、出来るだけのことはさせてもらいますから」

石田は返信した。

「内地に引き揚げてから、あなたには大へんなお世話になりました。どうやってそのご恩返しをしたらよいかと思っているくらいです」

志ん生は石田の言葉に胸をつまらせた。

志ん生が内地に戻り、平穏無事な世界で石田にしたことと、満州国が瓦解した中国大連で、日本人は誰も命の瀬戸際にいたとき、石田が志ん生にかけてくれた情け、その恩の重さを、志ん生は「くらべもんにはなりません。月とスッポンほどのちがいですからね」と言った。

二人の美しい交流は生涯続いた。

 川村真二「その恩の重さは、月とスッポンほどの違いがある」(日経ビジネス人文庫『働く意味 生きる意味』P.49

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僕は長く、志ん生になることが出来たらと願い、そう公言もしていた。僕には生涯で一瞬だけ、願った「志ん生の日々」が到来した。それは昨年2017年の晩春初夏のことである。志ん生には到底なりえないことを悟った――されど、そのことに僕は十二分に満足している。

そしてこれからは志ん生になる代わりに、黄金頭さんにとっての石田紋次郎、冒頭の話で噺家に声をかけ、パンと牛肉をごちそうした謎の紳士になれたらと願ったのである。

石田紋次郎の直観と願いが通じたのかどうかは分からない。志ん生は戦後、遅咲きの遅咲きとして一気にファンを掴んだ。その最初のピークは1947年48年、志ん生57歳から58歳にかけてのことだった。

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黄金頭さん贔屓の僕としては、内心、それよりも少し早い時期に、彼の花がやってくるのではないかと思って、どきどきしている。おまんもきっと、その日の訪れを心待ちにしていることだろう。