illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

なつめ漱石「無鉄砲」といふことについて

先日、若者がはるばる九州から自動二輪車にのって梅干しの行商にやってきた。

その目の玉がとびでるほどの値のする梅干しに、おれが大枚をはたきながら思ったのが「無鉄砲」ということであった。

親譲り無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。

夏目漱石 坊っちゃん

坊っちゃん」は、実に全編、この「無鉄砲」が幅を利かせている。丸山真男なら通奏低音とでも呼ぶだろうか。

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面倒くさいし「坊っちゃん」に失礼にあたるので解説言辞は略

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無鉄砲はある種、世間様への甘えというところがあるだろう。まあ、だいたいなんとかなるのである。坊っちゃんは証拠に武勇伝を終えたあと「ある人の周旋で街鉄の技手」になり「月給は二十五円で、家賃は六円」の暮らしに落ち着く。いまだったら、教員採用されて四国赴任、管理職を懲らしめて意気揚々とブログ記事にしたところで、月25万、家賃6万の谷中暮らしはそう容易に手に入るまい。もちろん、時代的経済的背景もある。

だが、何れにせよ、あくまでおとぎ話として楽しむとき、「坊っちゃん」の無鉄砲は、読者をほほえましい気持にさせる。

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バイクの青年はほとんど一切の計画をしてこなかったらしい。私はそういうのが好きだ。旅は本来、そういうのでなくてはならない。それなのに野郎どもは事前の計画や、ましてクラウド乞食などの狼藉を働き、せっかくの若い時期を自ら規矩にはめ込もうとする。

奴らは自由や反乱を標榜しているようで進んで資本主義の軍門に首を差し出しているのである。自ら否定したつもりの私たちの健康で文化的な最低限度の生活をもたらしてくれるこの実にありがたい資本主義様を、だ。

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無鉄砲は表向き如何に反逆児風に見えようとも、実にその根底に、時代や未来への健やかな信頼が横たわって居る。

そのような主旨のことを、江戸落語を交えて私は青年に伝えたつもりだったが、いまひとつピンとこなかったらしい。麒麟児は其の長い首を傾げていた。不首尾は偏(ひとえ)に私の技量不足に依る。

そこでこの掌を書き留め置くことにした。