illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

くーちゃん (´;ω;`)

この記載は痛烈だ。

討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争 - Wikipedia

この討論会の眼目は、全共闘らが、死の原理である行動を〈現在の一瞬〉に賭けきれず、既成左翼の思考ルーティンである〈未来〉へと繋げざるをえない時間意識の呪縛から抜け切れていないところにあり[2][13]、政治と文学の関係についても既成左翼的な〈政策的批判〉を踏襲するだけで、天皇制に集約される文化の母胎(非合理で非論理な民族的心性)の所在に無自覚であり、日本の歴史と伝統(時間的連続性)に関わる〈日本人の深層意識に根ざした革命理念〉を真に把握できず、それを拒否する姿勢で自ら〈革命理念の日本的定着を弱めてゐる〉ことを三島から指摘されている点にある[2][13]。

このときの保坂は冴えている。

保阪正康は、全共闘らが三島の論理の本質を最後まで全く把握できなかったし[5]、ある時には、「空間には時間もなければ関係もない」などと言い、三島の術中にはまって、解放区そのものが3分間でも1週間でも続こうが本質的に価値の差はないと答えさせられてしまったり、天皇という名辞が個々の共同幻想の果てにあると、誘いをかけられた時にも、三島のいう天皇の実体を彼らが把握できずに、的外れな質問に終わっていることを指摘している[5]。

三島がさすがだw と思うのは例えば次である。

ベストセラーとなった刊行本の印税は、全共闘と三島で折半され、三島はこのお金で、楯の会会員の夏服(純白の上下)を誂えた[12]。

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この討論の白眉は、三島が昭和先帝から銀時計を賜った、その式典で帝が木像の如く3時間、微動だにしなかった、「そりゃもう立派だったさ」と(通じないのをおそらく分かっていて)述懐したことにあると僕は思う。

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三島のテーゼは鮮やかだ。(1) 天皇は堕落しきったブルジョアではない。堕落しきったブルジョアであれば革命はもっと容易だ。その難しさの中で右も左も戦っているんじゃないか。(2) 個人的な思い出の中の昭和天皇は立派だった(全共闘諸君にとっての昭和天皇は立派ではないのか? ―とは、三島は口にしない)。

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いまだに、51対49で、三島が勝っていると僕は思う。その、力量差を、三島は(多少の怯えはあったに違いないが)敵陣に乗り込み、いったん乗り込んでからは余裕綽々で場を支配している。その違いはどこに、何に由来するか?

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それは冒頭にも記した、行動を現在の一瞬とその帰結たる死に賭ける、覚悟の在り様にある。実はこのことには右も左も関係ない。そのことは、全共闘が掲げたテーマのひとつ「われわれはやはり敵対しなければならぬ」に見られる、時間意識の温(ぬる)さにも見てとれる。

自らにいいきかせる決意では遅い。遅すぎるのである。

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三島は、この討論で、暴漢に刺されるなら刺されるでいいとまで腹をくくって来ていた。討論が始まった時点で三島の余裕は明らかであり、逆にいえば、三島はこの会場での死に場を失って、一層の徒労を帯びた。

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私は、英霊のために、左翼をも代表して、2020東京五輪開会式でストリーキングを敢行しなければならない。平成帝のお目を汚すのである。その日のために、日々を重ね、生を永らえる、そうした思いが日に日に強まりつつある。くーちゃん (´;ω;`)