illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

夏休み大人ブログ相談室

季雲納言さん id:kikumonagon からとても興味深いコメントをいただきました。

『新潮45』2018年8月号杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」精読(02) - illegal function call in 1980s

子供目線の話でごめんなさい(・ω・`)少しジェンダーな話題を見ていて思ったことがあるので書きますね

以前ネットで「同性愛は子供産めないから非生産的だ、良くない」「自分は生殖の為に彼女と付き合ってる訳では無い。好きだからだ」という趣旨の発言を同じ人がするのを見ました
今までの私は同性愛について「好きなら一緒にいればいいし、性に関係なく誰かを好きになれるのは人間らしくて(失礼な言い方になりますが)興味深い」と思っていたし、普通にBLGLの文や漫画も読んできました。しかしこの話を見て、出産を選択しない夫婦と同性の夫婦の違いがわからなくなってきてしまいました

それと、同性愛の同性を忌むことについて考えてみたのですが、「今まで普通の同性という認識をしていた人が自分を性的な目で見ている」という恐怖が理由だと私は思いました。が、これも一種の思い上がりではないかと。「男なら誰でもいい」「女なら誰でもいい」と決めつけるのは失礼過ぎるし、恋愛対象の性別に友人がいることは「恋愛を超えた友情はありうるのか?」という別の問題になってしまいます

悩むべきことなんでしょうか…?考えれば考えるほど、どうしてこれだけニュースやネットで性別の話をしなければならないのか理解出来ないんです。平安時代は堂々とブログに「誰々くんとデートした」と書く男性もいたのに…

これ、どなたか答えられる方、いらっしゃいますか。提起された論点は大きく4つです。

  1. 出産を選択しない夫婦と同性の夫婦の違い
  2. 同性愛の同性を忌む理由
  3. 恋愛を超えた友情はありうるのか
  4. そしてこれら1.から3.は、悩むべきことか

*

ばらばらにしか答えられない話なので、ばらばらに僕なりに答えてみようと思います。

*

人と起居をともにする動物は従来「家畜」「畜生」と呼ばれてきました。これが(思い切り時代は下りますが)ペットと呼ばれ、愛玩動物とも呼ばれるようになり、おそらくもっとも「進歩的」な一派からはコンパニオン・アニマルと呼ばれています。

この流れは人間側に自分たちは動物にとって何なのかという問いも迫りました。主従関係が揺らいだわけです。今日もっとも進歩的で穏健な一派は自分たちを「お世話係」と呼びます。高らかに宣言するといってもいいくらいだ。

さらに、動詞の用法も代わります。「犬や猫」(A)に「めしを」(B)「やる」(C)。これが従来の常識的な言い回し、国語の敬語では正しいとされてきた言葉遣いです。A、B、Cともに、私自身、生まれ育って実家でともに暮らしてきた犬や猫には、「犬や猫にめしをやってき」ました。これが、くーちゃんと出会うことによって革命的な転回を遂げた。

    • 「犬や猫」(一般名詞)→「くーちゃん」(固有名。呼び捨てがあってはならない。くーちゃんちゃん)
    • 「めし」→「ご飯」(実際の運用では「おいしい新鮮なお水とご飯ですよ」などと美化語を伴う形となります)
    • 「やる」→「あげる」「差し上げる」

用例:今朝も、くーちゃんちゃん様に、新鮮なお水とご飯を差し上げました。下僕の務めです。

私は今後、私塾の国語の教壇に立つ際には、この線に沿って敬語を板書しなくてはなりません。

*

何を申し上げたいかというと、関係が言葉の見直しを迫り、また、適切な言葉が与えられたときに、そこには新たな関係を人は見出し得るということです。まず、「出産を選択しない夫婦」「同性の夫婦」には、何かしら(コンパニオン・アニマルという表現が新たな地平を切り開いたように)ふさわしい命名が必要です。ただ、私の知る限り、いまはまだそれがありません。

*

第一の論点に関して

その上で、両者の違いを「生殖」や「生産性」あるいはそれ以外の一切の尺度から、問うことは、原則としてあってはなりません。季雲納言さんを責めているのではなく、100組の2人組がいたら、それは百様の関係です。それに名をつけさせるのは、いわば、中島みゆき「世情」が歌い上げたような世間一般つまり私たちの弱さであり、臆病さです。

「お二人はどんな関係ですか」旅先で、お嬢と私も、これまでしばしばそのような問いを投げかけられてきました。《別れた妻の最愛の姪です。つまり僕からしたら他人です。20年来の一番の親友です》何度か、そう答え、私は諦めることを覚えました。そして、関係性は形容詞や名詞ではなく、もし説明をするとしたらそれは固有の物語によってのみ可能なのだという予感的確信が私の手のひらには残りました。

*

第二の論点に関して

これは、ひときわ難しいですね。「同性が性的な目で自分を見ている」という認識自体が近代の産物なのかもしれません。悪左府台記」が好例を示しているように、権力中枢にある、ある種のオーラを発している男性には、男性から見ても「これはいっそ抱かれてもいい」と思える(ばかりか、思わず茎ががちがちになった、などという記述もあるくらいの)魅力があったそうです。魅力というか衝動ですね。

異性愛や婚姻に馴致されていなかった中世人には、そうしたものの感じ方があったと僕は思うほうです。折口信夫は自身の性的指向もあれど、その辺を直観していたのではないかと思わせる匂いが叙述や生涯からぷんぷんします。

折口は例外として、ひとついえるのは、「忌む」という感情の前には、生産性や子作り子育てという思弁はないのではないかということです。ただなんとなく、気持ちが悪いのかもしれない。そしてその気持ち悪さが何に由来するのかは、文化や制度や教育と、私たちの感受性が解きほぐせないくらいに結びついたところに、おそらく答えがある。ちなみに福田恆存はこれを「性はわからない」と喝破しています。そのとおりだと思います。

*

第三の論点に関して

恋愛を越えた関係は、これはあります。

自分の物語の話をさせてください。

kakuyomu.jp

私はこの物語で、血液グループ先生を、はじめから終わりまで代名詞で受けなかった。それは血液グループ先生が「2ちゃんねる」のあのスレッドで、ご自身の性別を明らかにせず、男性口調(名古屋地方の方言かな)を用いていたためです。こう書けば、血液グループ先生が何性であるかはいわずと知れたことです。けれど、僕は血液グループ先生のあのスレッドでのスタンス、仮面のかぶり方は、最大限に尊重しなくてはならないと感じた。

だから、僕の物語中での叙述はものすごく苦しい。ひとこと、「彼」ないし「彼女」で受けてしまえば済む。いやだね。おれはそういうのは断るんだ。

*

もうひとつ、これは季雲納言さんのことです。たしか、季雲納言さんには、相思相愛の、弟分か、弟君(おとうとぎみ)がいらっしゃいましたね。僕はとても慕わしい、好ましい関係のように、その「彼」が登場する記事をこれまで呼んできました。季雲納言さんならおそらくご存知でしょう、古典世界には、奈良あるいはそれ以前から、年上の女性-慕う年下の男性、という類型があります。必ずしも、婚姻関係や恋愛、恋人関係でなくていい。うまくいい表せないのだけれど、その感じ方は、太古の母系社会にあったとされる交差イトコ婚(もし興味があればレヴィ=ストロースを読んでみてください)の古い記憶を呼び覚ますものかもしれない。

レヴィ=ストロース講義 (平凡社ライブラリー)

レヴィ=ストロース講義 (平凡社ライブラリー)

 

話が脱線しました。そう、血液グループ先生でしたね。血液グループ先生(いやだね。おれは「彼」とも「彼女」とも書くつもりはない (´;ω;`))は、恋ではない、僕はこれを中世古語の含みで「慕う」と書きたいのだけれど、一期一会で思わず心惹かれる気持ちを、白血病にかかったよよん君に対して抱いていたのではないかと思う。それはよよん君にしても同じだった(はずだ)「慕う」なのか「大切」なのか…。

病床を訪ねた血液グループ先生は、何をしたか。

それにしても、どうしてわざわざ白衣で見えるなんてことしはったのやろか。

「できれば、よよん君と、足の裏を合わせてもいいでしょうか」

 そんなこともいうてはった。

 洋ちゃんがよろこぶのなら、どうぞと、あのときはわたしも思わず返事をしましたけれど、あれは何やったのやろうねえ。何か、お聞きになっていませんか、そうですか。

第3章:母 - セカンド・オピニオン(船橋海神) - カクヨム

ボコノン教の教義に、ボコマルというのがあります。

ボコノン教 - Wikipedia

それはひとことでいえば、「神の御心のために働く人々のグループ」であるところの「カラース」が行う秘技です。「お互いの足の裏同士をくっつけ合うことで、2人の意識を混ぜ合わせる儀式。行うと相手と強い親密感を味わうことができる」

ボコノン教えの作者=教祖であるカート・ヴォネガット(・ジュニア)は、その生涯でかなり複雑で難しい婚姻関係を送ります。

カート・ヴォネガット - Wikipedia

彼の求めていた関係は、性差や、婚姻や、友情や、その他の近代的な語彙によっては対応できなかったのではないかというのが、現時点の僕の仮説です。そしてそのような複雑な内面を形成し、作品世界に投影し続けたカート・ヴォネガットのことを、血液グループ先生は好んだ。僕も、彼の作品世界はとても好きです。

*

おそらく、近代世界の枠内で生きている以上、今回の問いには答えはありません。まとめに代えて、私から、季雲納言さんにお伝えしたいことは2点です。

  • どうか、そのような(今回お持ちになったような)問いを、できれば手放さないでいただけたらと思います。
  • 古文世界を、大切になさってください。

こちらからは、以上です。これから、(不承不承ながら)(いったんやりかけた仕事ゆえ)杉田水脈を叩きにいかなくてはなりません。長文失礼いたしました。