くーちゃんがうちにきてくれて3年が過ぎました。
くーちゃんと初めて会った日のことを僕はよく思い返しています。
圧倒的な孤独と、その正体をいまだ捉えることのできない寂しさを、船橋の高架線の辺りまで僕は携えて帰ってくることがあります。けれど、くーちゃんは、そんな僕の内面のことを知らない。くーちゃんは僕の孤独や寂しさを知らないし、僕はくーちゃんには「孤独」や「寂しい」といった語彙を聞かせません。
くーちゃんはいつも変わりません。たまに、出張で家を長く(といっても数日だけど)空けて帰ってきたときには、拗ねたような、甘えたような声を出してくれます。
家にいるときは、くーちゃんは割と、僕のそばに居たがってくれるかな。
くーちゃんを看取るときが来たら、僕は再び、あの漆黒の孤独に落ちることになります。いまの日々の生はそれに向けた馴致、トレーニングであろうとも思います。いま私は何気なしに馴致ということばを用いましたが、
人間が動植物を飼育栽培し,繁殖させることをいう。家畜,家禽などはその結果である。現在の家畜はいずれも有史以前に野生の動物を馴らしたものと考えられているが,その起源や経過は不明なものが多い。犬が最も古く,旧石器時代といわれ,新石器時代で牛,羊,青銅器時代で馬,有史以後においては七面鳥,あひるなどといわれる。植物における馴致は栽培で,穀物,野菜などはその結果であって,起源は新石器時代といわれる。
デパートの屋上の庭園の植物は、古くから人類が孤独を飼いならすために行ってきた象徴のような訓練、そのひとつの流派が、私たちの時代にあの形となって現れたものではないでしょうか。そうでなければ、見る人に悲しみの記憶を呼び起こさせる理由に乏しいでしょう。
くーちゃんと同じお墓に入り、その土の上にはまたたびの木を植えてほしいと願います。