illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

平成「やれてしまった」委員会

きょうは会社が休みなので(時効であるはずの)「やれてしまった」話を披露致したく。

dk4130523.hatenablog.com

96年か、97年でしたか、駒場寮の悪友のひとりが「じゃマール」にハマっておりました。CA(キャビン・アテンダント)好きで、あ、じゃマールが何かというのは省きます。

じゃマール - Wikipedia

悪友のひとり(M君)は理2から教養学部に進んだ6年めだったかな、塾講師で生計を立てつつ、女好き、コンパ好きで、僕はそのころすでに鬱を発症していたから、いつも疲れて23歳なのにうつろな目とほうれい線が35歳以上に見せていました。

コンパがあるというので行くとCAさんではなく専門学校生。良家のお嬢さん風が3人、こちらはM君(悪友。主催者。Ma)、また別のM君(Mb)、私の3人です。まだ活気のあった渋谷センター街。お嬢さんをP(壇蜜風)、Q(広末涼子風)、R(TommyFebruary風)とします。たかし君はいません。動く点もありませんでした。

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狙いのベクトルは次のような感じでした。私、Ma、Mbの3人でコンパに出るとだいたいいつも同じ構図です。

  • Ma→だれでもいい
  • Mb→携帯電話ビジネス / インターネットビジネス風のことに忙しい
  • 私→早く帰って漱石を読みたい

女性陣のみなさまには失礼な話だと思いますが、それでも、「釣れました」。大学のブランドはまったく虚しいものです。女性陣は、(後から判明しますが)

  • P嬢→Mb狙い
  • Q嬢→特になし(Pに引っ張られてきた)
  • R嬢→特になし(ご飯に釣られてきた)

でした。確かMb君がP嬢を持ち帰ったのだと思います。ちなみに時代背景をいえば、ちょうど、宮台真司がテレクラに呑まれていた頃でしょうか。また堀江君は南、北、中の3棟あった駒場寮の北寮に94年頃まで暮らしていたはずですが、そのうち姿を見せなくなっていました。

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翌日か翌々日の女子品評会で、Q嬢とR嬢が私のことを「何か疲れた感じ」「老けてみえる」と評していたのに対し、P嬢は私のことを「かわいい」と主張したそうです。その後もちょくちょくちょっかいを出す(けれどきちんと付き合うのではない)Mb氏が、あるとき私にそう知らせてきました。「付き合っちゃえば」「…」

Mb氏はそのフットワークの軽さが災いして本郷に進むことなく中退、中部地方から上京されたお父様が「情けない」と呟きながら、寮部屋の荷物をまとめ、私たちに頭を下げていらっしゃったのが印象に残ります。いま、何をしているのか杳と知れません。

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「ご飯食べませんか」

P嬢から私の携帯電話に連絡がありました。「ご飯くらいなら」。私はそのころ修士論文の研究レポートをまとめる1度目の作業に没頭しており、駒込にある東洋文庫に足繁く通っていました。それはもう強烈な鬱で、

「大きいんですよね」

そう、P嬢が乾杯の後でにっこり微笑んで尋ねてきたときにもその主語が何かわからず聞き返したくらいです。「え?」「ふふふ」「私ね、」

《(私)さんとは、最初に会ったときに、男女の間柄になると思ったの。あの日はMbさんのキラキラした瞳に押されちゃったけど》

渋谷のホテル街で夜を明かした後のモーニングで、私たちはこれからどんな体位で何回するかという作戦会議を致しました。P嬢はお医者様のひとり娘。埼玉から都内の美術系の専門学校に通っていて、基本的なデッサンが整っており、その細く長い指と器用な手先で、喫茶店のクーポンの余白に四十八手を次々と描いていました。

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P嬢は99年に結婚、私は00年に結婚、01年に離婚をしました。

派手な作戦会議のわりには、「やった」のはそのとき1回(正確には一晩に3回)のことでした。

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