illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

北条裕子「美しい顔」少し丁寧読(9)

前回に引き続き北条裕子「美しい顔」をやっぱり少しだけ丁寧に読んでいきます。とかいいながら単に身体に入ってくるように読んでいるだけです。

dk4130523.hatenablog.com

では早速引用します。

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf

専用の薬でなくてもいいから何か保湿できるクリームがほしいと思った。ハンドクリームでも何でもよかった。「痒くてもかくの少し我慢してよ。すぐに薬、手にいれてあげるから」我慢できるような痒みでないのだろうがそう言うと、ヒロノリはこくりとうなずいた。

ここは、いいよね。引き続き、弟思いのおねえちゃんです。

あらゆる物資が足りていなかった。私たちの避難生活は一切のゆとりがなかった。なかなか物資が入ってこなかった理由のひとつは、震災から五日間、この町は入る情報も出る情報もいっさいが遮断されてしまったということだ。

「震災から五日間」を振り返っている箇所だから、2011年3月16日かな。ダウトだな。「あらゆる物資が足りていなかった。」これは、いいとしよう。少々言い過ぎと感じるけれども。「私たちの避難生活は一切のゆとりがなかった。」この感じ方、「一切の」と断じる感じ方は、果たして、3月15日、16日、17日(を、後に振り返った)ものとして、適切かどうか。

私たちは圧倒的な物資不足に窮していた。私は十七年間生きてきて初めておなかが空くということを知った。その言葉の概念を知った。おなかが空くというのは精一杯遊んできた夕方に足をふらつかせて家へ帰るときの感じではなかったのだ。疲れたプールのあと、胃の中に空気が入ってふわっと体が浮いてしまうような、ちょっと吐き気さえ感じるような、あの感じでもなかったのだ。

「概念を知った。」「概念を知った。」「概念を知った。」

重要なことなので3度繰り返してみました。空腹はそこから知る概念ですか? 被災地の被災者の感じる(た)3月15日、16日、17日の空腹から?

背伸びしないで「本当の意味」くらいで十分ではありませんか。

続けます。

しかしどうゆっくり食べてもどうしっかり嚙みしめながら食べてもそれはやはりクッキー一枚分なのであった。五日間、本当にどこからも救助はこなかった。一切の情報もなかった。他の地域のことも噂としてしか入ってこない。ラジオもこの地域のことは何も言わない。子どもがいつもどこかで空腹のために泣いている。便器には便が溜まっていく。バケツに用を足してもそれを流す水がない。校舎の屋上にSOSと書いたが反応はない。そろそろ一度も自宅に帰らずにいるのも限界と言って無理やり出ていく人がある。

あの…、ここは慎重になる必要があるよ。「一切」が多いんだよね。北条さん、本当にそうかな。僕が気仙沼の親類から聞いた、あるいはまさに3月15日前後にやり取りを交わした、「私のノンフィクション」とは、様相がいささか異なる。場所も異なるだろうし、ここでは、相対化を試みるに留める。3月15日夜には静岡で震度6強が発生して、富士山が噴火(爆発?)するのではないかと、僕の(避難をしていた)気仙沼の叔父は、身構え、北関東から都心方面(あるいはもっと西)に身を寄せようとしていた僕のことを心配して、メールを寄越してきた。

メールには、「きのう(14日)きょう(15日)お前外に出ていなかったろうな」とも、記してあった。栃木足利から那須あるいはその延長、茶臼岳の向こうに福島を見上げた、14日の空模様は(たしか曖昧な曇り空だったと記憶している)、ぞくぞくするような、妙な胸騒ぎをかき立てるものだった。これ以上は、怖くて未だに書けない。

*

16日の陛下のおことばは、宇都宮に戻るか、南下するか、その迷いの中にあった中間地点の小山、駅前の東横インで拝受した。

東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば - 宮内庁

私はそれが何ものに対してなのかは忘れたけれど、「戦わなくては」と思ったことを覚えている。陛下のおことばを思うとき以外は、水野解説委員の登場をひたすら待って(情報収集に努めて)いたような記憶もある。