illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

極私的「やれたかも委員会」

このところ毎朝晩のように北条裕子さんの話をしているのでPVが伸びていてがっかりする。と、ともに、これは私の本来の芸風や持ち味ではないという弁明、釈明をしてみたくなった。もう20年も前の恋の棚卸をして、楽曲とともに振り返ってみたい。そう決めて、そのためにここにやってきた。

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1997年当時私には好きな女性がいて、どのような不適切な関係だったかといえば、カラオケで彼女が「ジュリアン」(PRINCESS PRINCESS)を歌う、私が「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」(楠瀬誠志郎郷ひろみではない)を歌う、すると彼女が「あいのうた」(YEN TOWN BAND)を歌う、それでいてカラオケがお開きになれば手も握らず挨拶もせずにしれっと踵を返して池袋から当時住んでいた西巣鴨までのタクシーを拾う。そんな間柄だった。

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私は私が彼女のことを好きだと思っていた。彼女は自分(彼女)が私のことを好きだと思っていた。そう、後になって友人のひとり(A)から聞かされた。そのころの2chには「脈あり脈なし判定スレッド」というのがあり、悶絶した私は東芝Librettoという小刻みな端末と56K(?)PHSからあの煉瓦色の掲示板につないで、やっぱり悶絶していた。

「まだもたもたしているの?」と、彼女の友人のひとり(A)はあるとき私に尋ねてきた。けれど私はそれを罠か何かだと思って無視をした。LINEもなかった時代なので既読スルーには出来ずあからさまに鼻でくくった。するとそのことが尾ひれをつけた形で彼女にバイトの次の休み時間に伝わり、休憩後のバイトで見るからに血の気の失せた彼女が背を向けるという、そのような時代であった。

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38度線を巡る膠着状態が続くあるとき、私が腹を立てたことがあった。それは彼女が「文学で芽が出なかったらどうするんですか」と尋ねてきたからだった。私は「どうしてそんなことを訊くの?」と(カチンときて)訊き返した。彼女は何も答えなかった。私は修士課程にいて、彼女は国立のほうに移転する前の西巣鴨 / 滝野川のキャンパスに通う大学生だった。きれいな人だった。背筋がすっとして、何ともいえない品のよさと知性を携えていた。それが阿呆な質問をしてきたものだから腹の虫が暴れたのである。阿呆は私のほうであった。

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音信不通になってから、10年、15年が過ぎたころだろうか。

私は例によって場末の悪所に居た。地元の方は腹を立てるかも知れんが、水海道というところの熟女パブである。連れ出し可という触れ込みだった。連れ出すつもりはなかったが、出張の手慰みに、火遊びをしてもいいだろうくらいの助平心はあった。

熟女たちに、ひとしきり落語を披露し終えた後、20歳過ぎくらいのヒリピン人のダンサーが入ってきて、私の横についた。

「コノアト、ドウシマスカ」

ヒリピン人のおねえちゃんは私の太ももをさすりながら耳元に口を寄せた。「何か歌ってほしい」と私は答えた。「オキャクサン、シッテルカ…」

彼女は「ジュリアン」を歌った。私は泣いた。わけもわからずに滾々と泣いた。彼女のことを思ったのも久しぶりだし、まさか泣くとも思わなかった。席に戻ってきたヒリピン人が「ナゼ、ナイテイルノ」と尋ねてきた。

私は10年か15年か前の思い出を話した。「カノジョノコト、スキダッタノネ」と、おねえちゃんはいった。私はその言葉を聞かなかったふりをして、そのまま涙を流し続けた。

「アイノウタ、メイキョク。ウタッテアゲル」とカノジョはいった。「100エンクダサイ」

私は手を振り払い、お会計にやや多めの札を渡して、そのまま投宿先のビジネスホテルに戻り、靴を履いたまま、寝た。

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彼女の歌う大黒摩季「Tender Rain」は、それはもう、見事なものだった。いまでも、耳の奥に残っている。

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そして、それに匹敵するだけの返歌の持ち合わせが、当時の私にはなかった。無論、いまだって、ない。