illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

例の歌詞の件(つらくてぼくはもうだめですぴょん)

本当に、もう馬鹿すぎて口に出したくないのですが、それでもいくつか古文の観点から意味のあるポイントを拾い出すことはできるので、それだけやっておきます。

「意味もなく懐かしくなり」

懐く、は自然にこころひかれるさまをいいます。意味などとことさらにいいたてるのは屋上屋です。また、旗に対してこころひかれるのはたとえば、

青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直(ただ)に逢はぬかも(万 148)

のやうなときです。この歌はほんとうにいい歌です。おのずと涙があふれてくる。

ことば(ことのは)が穢れるといけないので、この歌にかんしては野田醤油(誤爆)とは別に論じます。作詞家は、旗に対して「意味もなく懐かしくなる」ことがないことがわかっているのでことさらに「意味もなく」と力んでみせなくてはならない。そういう感情ではないんです。頭がおかしい。万葉の歌には近代でいうところの意味なんてないんですよ。

「この身体を流れゆくは気高き御国の御霊」

御霊は御国とセットでたれかの身体を流れたりはしません。流れるかのごとき言葉遣いは近代国民国家(ネイション-ステート)が配布したものです。竹田とかこの御仁とか、なんか変なのが流行っているのかしらん。もっとも、福沢の思想にこれを許すものがないわけではない。一首だけ引きます。

吾が主の御霊給ひて春さらば奈良の都に召上げ給はね(万 882)

山上憶良大伴旅人に送ったものです(奈良のおじいちゃんBLですねこれ。あ、いいです放っておいてください)。貧窮問答歌だけではない憶良の味です。うまいなあ。

ここでいう御霊は「おこころがけ」「おこころつくし」くらいの意味です。背景を知ると思わず頬のゆるむ歌です。

「僕らの燃ゆる御霊」

意味がまったく通じない。(1) 御霊は共同所有にはなりません。(2) 御霊は燃えません。(3) 修飾被修飾の関係が一意に定まらない。ところからして作詞家は現代国語からして満足にできていない。醤油(誤爆)を飲み足りないのではないか。(追記: (4) まるで思い至らなかった。自分/自分たち自身の魂のことを御霊と呼ぶ? いよいよ気違いじみている。)

「さぁいざゆかん」

意味「さぁ」と「いざ」が重複しています。「あ、これからいっちゃうよ」くらいの意味でしょうか。ずいぶんぬるい性交だ。早漏で御座候。黙っていけばいい。正調は「いさゆかむ」でしょう。

つらくなってきたのでもうやめます。ふつうに、歴史や古典を紐解けば見た瞬間に耐えられなくなる。批評のマナー上、念のため音曲も聞いてみたが、詩と曲が不調和を起こしている。詩も曲も無理やりにはめ込んだ感が満載で、到底、聞くに耐えるものではない。

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がまんして書いたのでほめてください。上で引用した歌は、申し訳がないので(まさか倭大后も、憶良も旅人も、千数百年後にこのような流れで歌が引かれるとは思ってもみまい)、次に書く記事で解釈をちゃんとやっておきます。

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dk4130523.hatenablog.com

今回の作詞家の作法は、典型的なこれです。もし、鎮魂の意図があるなら、アルバム全体を鎮魂(や召喚)にすべきです。それがわが国の(いまは廃れた)勅撰集、いまでいうオムニバス、の作法でした。

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付記:わたくしがとりわけおそれるのは、力量のない者が、不用意に、「たま」に触れんとすることです。それは古来、災いを招くものとして厳しく慎まれてきました。それから、本来(西暦600年から1800年くらいまで)、きはめてパーソナル/プライベートな領域にとどまってきた、心の発露を、パブリックなものに接続しようとしたのは、明治以来のいはゆる政府の杜撰、怠慢です。迎合するとしたら、それはロックではない。

おそらく野田は、今回の詩歌を、こころからのものとして(全く)思っていないでしょう。だったらはなから書かなければいいし、こころからのものと思っているなら、頭がどうかしている。まずは、頭と心を切り離すべきです。