illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

現代文教科書「発展学習」

いいか、みんな
(゚д゚)
(|y|)

おめかしと生では
何のことかわからないが

生 (゚д゚) おめかし
\/|y|\/

二つ合わされば
色気が出てくる

( ゚д) なまめかし
( \/\/

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あながちうそではなくて、これは数ある大野晋による語源探求の中でも僕がもっとも気に入っているひとつ。生というのはいまでも生半可、生意気なんていうのに残っているように中途半端、未熟の意味です(意気が一人前でないから生と形容されるわけ)。めかすはおめかし、装う、飾ることです。だから生めかしは装いが未熟であること。

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けれどそこには平安時代の審美が加えられる。一見、装いが未熟に見える。しかし実は十分に心を尽くされた美に裏打ちされたものであって、あえて未熟に見せる、さりげなく見えるような工夫がなされている。だからこそ、美として最高の姿かたちだという感じ方を、どうやら平安貴族はもっていたらしい。

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「伊勢」や「源氏」には、なまめきかはす(交わす)といういいかたが出てくる。これは、実は心を通わせ合う男女が、しかしそうでない、まだ届いていないのだと、互いに思い遣る気配を周囲が感じ取って、「あのふたりはなまめきかわしている」などと小声でうわさする。そんなときに使われる表現であった。とくに紫式部はよほど用心して意を込めて使っている(と、僕は思う。さすがに源氏はすべて暗唱していないけれど)。

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もうがまんならない。読め。見よ。

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近いのは、この、花輪くんの側の自然さ、かな。

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(ちなみに、検索すると見つかる http://japanmakes.com/nihongo-sonota.html は、丸谷才一からの丸写し。別に僕は(今は)何もしないけれど。)

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室町時代あたりに、それまでの「なまめかし」は、いまに近い、あだっぽい、妖艶だ、の意味に引き寄せられる。しかしわれわれがここで気づくべきは、あることばに人々が知らず乗せてしまう意味が(知らず知らずに)変わっていったとしても、感じ方それ自体はことばの奥底を流れて何かの表現形式に託されるのを待っているかもしれないということ。

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これで終えたらただの論説風エッセイだ。おれはそんな無益なことはしない。

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ダ・ヴィンチ」2018年5月号の穂村弘のページをめくってみてほしい。そこに、諸君もひょっとして目にしている、ある、僕が贔屓にしているブロガーさんの(ものらしき)短歌が掲載されている。実にさりげなく、くまちゃんが鎮座している。

その「さりげなさ」と悲しみは、むかしでいえば「なまめかしきもの」だったはずだ。

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わたくしの優れた調査結果によれば、そのブロガーさんは先の震災に遭われ、その喪失をしばしば歌に託して祈ろうとなさっている。おれが心中スキップしながら書店を後にしたのは、何年ぶりかのことであった。

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出典:船橋海神「書店からくーちゃんまで」

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日本語の年輪 (新潮文庫)

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