illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

返事はいらない

僕にとって最高潮につらいのが、好きな人に渡したラブレターに返事をもらうことだ。

ぜったいに、いらない。実際、渾身の(と呼べるだろう)ものを半生で3通出した。そのどれも返事をもらっていない。逃亡した、はぐらかした、もらってそのままダンボール箱にしまい黄砂となった。

では好きだった気持ちがうそだったかといえばそうではない。手紙を書くくらいだから。

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けれど、それと返事をもらうことは別もの。だいたい(こういういいかたをするからよくないのだけれど)返事がほしいとは僕はいっていない。反面からいえば、あるとき、大学院生のときに好きだった女の子とそれっぽい関係になり、「私の気持ちを知りたくないですか」といわれた。僕は戸惑い、まずその場を立ち去り、なんと返事をしたものか三日三晩くらい悶えて、「よく考えたのだけれど気持ちを知りたいといった覚えはないから」と、その女の子の友だちから伝えてもらった、それくらい本格的な及び腰なのである。ちなみに、その女の子は、それでますます僕に興味を持ったらしかった。「火が点いたのよ」と、僕の性格をよく知る別の女ともだちは「ばかねえ」というふうに教えてくれたのだが、火を点けたことに僕はまるで身に覚えがない。「そういうところがだめなのよ」

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ばあさんに、手紙を書いたときだけは別だ。返事をもらうなり「いま読んでいい?」と訊いて、「読んでくれるかい」「うん!」と、俺(5つ)は即答し、音読した。ばあさんは涙ぐみ、俺をいい子いい子して、おいしいさつまいもを蒸(ふか)してくれた。

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くーちゃんに、「くーちゃん(´;ω;`)」「ちゅきちゅき」と話しかけるときも別だ。くーちゃんは「ふにゃあ」と返事をしてくれる。それも、ウェブで覚え知ったのだが、サイレントに近い声で。子猫が親猫に甘えるときに出す声らしい。

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ここで是非に断っておきたいことがある。俺はばあさんの気持ちやくーちゃんの気持ちを知りたいなどと思ったことは一度もない。そういうことを言語化する以前に、本当に好きなら、自然に(ここ点々打って)何かとして現れる。知りたいと思う暇がないんだ。

これは、説教や定式化ではない。

つい、思わず、涙ぐんだり、甘えたサイレントの声が出たり、してしまうのだろう。「俺はそういうものしか信じない」と、かつて別れた妻に話したところ「それは肉親の愛情。貴方の限界はそこにあるわ」と、作家船橋海神に対する本質的な批評を頂戴した。やはり俺は間違っていたのだ。

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俺ははてな界隈の辺境、海辺なのだか崖の縁なのだか、に暮らすある文人のファンだ。彼は滅多にスターを付けないことでも知られる。

テッド・ウィリアムズは―若い頃から気難しがりやで知られていた―引退試合でも普段通りにプレーし、セレモニーも、ファンサービスも行わなかった。ばかりか、ファンの声援に帽子をとって応えることもせず、つまり一切を拒否した、そのように見えた。

「神は返信しない」(“Gods don't answer letters.”)

当時「ザ・ニューヨーカー」の記者を務めていた(作家になる前の)ジョン・アップダイクは、そう記して偉大なる三冠王のことを称えた。

返事はいらない (新潮文庫)

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