illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

予定 - 2/24(土) よよん君お墓参りの会

90年代を生き延びた者にとって、口惜しいかな、ミスチルは精神史の大きな要素になってしまっていると思います。繊細な浜田省吾? 何がいいのか。経済内戦の敗者を内面から用意した罪は大きい。と、disるふりをしてみましたけれど、僕もそれなりに聞き、歌ったくちです。ほんとはグッチ裕三の替え歌とかやりたいんだけど、コンパではまあ無難じゃないですか。2周か3周まわっていまは浜省がいいなあ。渾身で歌って気持ちがいいのは槇原敬之「桜坂」です。あっー

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2月20日は、よよん君が2ちゃんねるに初めて降りてきた日です。2002年。こうして見ると、2が続きますね。2ちゃんねるだから半ば狙ってやったのかなあって。春がもう、すぐそこまでくるときに、彼は前線のような役割をしたのかな。

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こうして日記を書いていて、信じられないことばかりだと思いませんか。会ったことのない人と話したり、泣いたり、笑ったり、愚痴をこぼしたり、励まし合ったり。

96、97年頃、僕は大学を出て院の学費を稼ぐのに、翻訳や執筆をずいぶんやっていました。翻訳はWindows 3.5.1 / 2000のサーバー管理ガイドやら、FreeBSDのなんちゃら、Wyvernのマニュアル Wyvern (オンラインゲーム) - Wikipedia、執筆では新入社員向け企業案内(企画、インタビュー、Webへの落とし込み)やらです。「IT革命」「第2第3の開国」などと借り物のことばが踊っていました。みんな、これから何が起きようとしているのか、その予感は確かにあったものの、どう名づければ自分の、世の中の感じ方にフィットするのか誰も答えを持ち合わせていない。その状況は2005年と2010年の間くらいまで続いたのではないでしょうか。

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そうしたもの、特に企業ブローシャを山ほど書く中で、あるとき、虚しさに襲われました。いまなら、表向きの美辞麗句の裏で、どれだけ現場が必死に持ちこたえているかを読み取り、その匂いをほのめかすような書き方もできる。けれど、当時はまだ僕も23、24。○○のチカラだとか、もう忘れちゃいましたけど、(大手も中堅も)企業が発する自己啓発自己洗脳系のことばにいちいちやられていたのだと思います。いまでも、絆とか、もううぇーって感じです。金になったからそれでも求められるままに書いていた。そういう日々が、5、6年続きました。

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2003年です。もう、よよん君は亡くなっていた。「感動するスレ」をまとめた記事をたまたま読みました。それからの日々のことは、もう繰り返しません。

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ただ、僕はもし、2000年を折り返し線に見立てた場合、前後4年5年には、何かしらのビッグバンがあったと思っています。それは「IT革命」「第2第3の開国」ではない、もっと、人と人との関係、コミュニケーションの、今日に至るあり方を規定する、何物かです。僕はいまでも不思議だなあと思うんです。僕ははる君に、本気で、ほんとうに、直る、ちがうな、直るというのは不遜で非対称だ、はる君がはる君のままで、すくすくと育って、大きくなって、ということを願ったり祈ったりしている。例えば、そういうことです。馬鹿にしていたんですよ。もちろん、はる君のことではなくて。祈りは、届かないと思っていた。会ったことのない男の子のことを思って何かを願うなんて、おかしい。どうかしています。いまだって、届かないと思っている。届くのは、僕ではないだれかの祈りです。にゃーん。

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それでも、日々、まず僕自身がそうですが、こうして何かしらの発信をして、知らなかった人と、少しずつ、知っていく。それがもしいまに続くビッグバンの余波だとしたら、ビッグバンにより近いところには、あのスレッドがあった。あったはずなんです。

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引用します。

かれらは定時が過ぎるのを待って足早に帰宅した。自室に直行すると、コンピュータの電源を入れ、インターネットにつなぎ、うわさが本当であることを自分の目で確かめた。おそらくは大半がひとり暮らしで、中にはぼくのようにいてもたってもいられず、アパートの階段をサンダル履きで駆けおりた人もいたはずだ。
不意に、ふだんは意識することもない秋の黄昏にとり囲まれた気がして、「ありがとう」というつもりだったのか、それとも「忘れないよ」だったのか。どちらにしても、口ごもったことばは、コーラを買いにいくまでの間に、冷え込んできた外気にかき消されていった。
アパートに戻り、屋上にのぼって栓を開ける。吹きこぼれる炭酸をそのままに、薄暮の街に目をこらせば、道すがら、やることもなくて西の空に頭を下げる人の姿がちらほらと浮かんでくるようだった。
そのいかにもぎこちない、淡い色合いをしたシルエットが、ぼくの印象に残っている。
50人か、100人か、一体どれくらいの人が踊りに加わったのだろうか。

 船橋海神「セカンド・オピニオン」P.7

よよん君が亡くなった報せが、日本に、世界に広まる。そのときのことです。

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ミスチルの話でしたね。「君が好き」に、夜の淵、アパートの脇、くたびれた自販機で缶コーヒーを買う一節があったと思います。口惜しいかな、この部分はリスペクトです。

ちなみに、よよん君への、「君が好き」あるいはそれ以前の言語化し得ない思いを、血液グループ先生は、決して語ろうとはしない。桜井和寿は語る。僕は、語らないほうを選ぶタイプです。桜井君がそれまでの歌い手には語り得なかった部分に光とことばを与えたように、僕はこれまでの物語作家の倫理に則って、語り得ないものに反応し続けていきたい。

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そんなわけで、お墓参り、行きます。われながら、まるで、まったく、理由の説明になっていない。2月24日(土)11:30京都駅→ランチ→naoya襲撃→お墓参り→16:30京都駅で参会。いらっしゃるご意向の方、DM等お待ちしております。昼食は、ご馳走します。