illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

(海老沢泰久と玉木正之の描く)星野仙一のこと

星野仙一が他界した。僕は彼をあまり好きではないが、スポーツ記者があまりに薄っぺらな記事を書いてそれで悦に入っている様子なので、記しておく。

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海老沢泰久が珠玉の名短編「巨人を愛した巨人キラーたち」の中で江夏、平松らと並べて行を割いているのが星野である。

彼は倉敷商から明治大学に進み、史上空前絶後のドラフト会議(1968.11)で、ジャイアンツの裏切りとも取れる行為(星野を単独指名できたにもかかわらず武相高校の島野修:後のブレイビーを指名)に遭ったのだが、そのことは一部割愛する。

「そんなバカな――」

と星野は記者たちにいった。「星と島のまちがいじゃないですか」

まちがいではなかった。彼は指名順位十位のドラゴンズに指名された。

「ぼくはプロでやりたいとは思ってたけど、どうしてもジャイアンツにはいりたいとは思っていなかったんですよ。どこが好きかといわれれば、子供のころからのタイガースファンだったし」

と星野はいった。「ただジャイアンツが指名するというから、それなら行きましょうといったんです。好きでもない女でも、振られれば口惜しいですからね。島野と聞いたとき、カチンときたんですよ。でも本当に腹が立ったのはそのあとでね、何かのパーティーのときにジャイアンツのスカウトが近よってきて、ぼくに中日を蹴れっていうんですよ。どうしてそんなことをいうのか信じられなかったですね。

ぼくはバカなことをいうなといいましたよ」

(引用は上掲書P.192-193から)

次は、時代を下り、現役引退後の1987年に高田実彦(いまどこで何をされているのだろう)が記した一節。

幼少のころ父親を亡くし、母親に育てられた。躾の厳しい母親は、野球で暴れるぶんには、叱らなかった。明大へ入って出会った島岡監督は、さらに”ユニフォームで燃える”指導をした。

(P.190)

星野という男には確かにそういうところが見られた。カチンとくると燃える。(おそらくあったであろう)父親的なものへの憧憬。そしてその相似形としての、父親的球団ジャイアンツへのアンビバレントな思い(ファザコン、といえばいいのかな)。

しかしそれらは、そこらのスポーツ記者が語る単純なスポーツ時局論、会って話したことがあります論、感傷文では届かないところにこそ何か核心がある。かつて、そのことに、30代半ば頃から気づいていた気鋭のスポーツジャーナリストがいた。

玉木正之だ。

ほしの せんいち【星野仙一】①(略)いずれ政治家に転身する……という声もあるが、そんなばかじゃないですよ、このひとは。②筆者がこのひとのことをほめると、必ず「それだけは認められない」という反論があるくらい、アクの強い人物。③陰で悪口をいっていても、直接面と向かって悪口をいうひとがいない人物。そこいらあたりが、彼の陥穽にならなければいいのだが……。

プロ野球大事典 (新潮文庫)

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(P.509)

しかし、このような見方を軽々と乗り越えた人も(少ないながら)いた。海老沢泰久の著作に筆を戻す。

長島は監督になってから、この星野にひねられた試合のあとで、自分のチームの選手たちのふがいなさを嘆いてよくこういった。

「あれがピッチングというもんだ。うちの連中は、どうして星野のようにやれないんだろう」

彼は、日本にはジャイアンツというチームはひとつしかないことを知らなかったのだろう。星野も江夏も平松も、相手がジャイアンツだから特別のファイトを燃やすのだ。

(前掲書P.193-194)

長嶋茂雄という人物の何というか、人のよさ、味のよさというのがよく表れた一節だと思う(ちなみに、長嶋は平松政次にも同じようなことを思っていて、実際に平松のことは10年目を迎えた頃のあるシーズンオフに長嶋自らが電話でジャイアンツに移籍しないかと話したことがあると海老沢は証言している。平松はうれしかったが断り、大洋の平松として生きる道を選んだという)。

ところで、1つ前の玉木正之の引用で、僕が意図して省いた部分がある。

①十二世市川団十郎を彼が継ぐべきだったと思えるほどの見栄を、マウンド上で切った元ドラゴンズの投手。テレビ・タレントになってしまうのかと思っていたところが、ドラゴンズの監督に就任して二年目(1988年)にペナントを獲得。

(前掲書[玉木]P.509)

この演技性(と、ないまぜになった鉄拳制裁)をどう評価すべきか。僕は目を背けてしまうほうだ。最晩年1981年か82年の星野のマウンドをテレビで見たことがある。もう、ピッチングは衰えていた。そのことは子供の目にも明らかだった。にもかかわらず、何か大きなジェスチャーを繰り出していた。「怖い」と僕は思った。同じころ、淡々と敗戦処理をこなす堀内の飄々としたメガネのほうが、僕は好きだった(柔らかく、衰えたとはいえバネを残すピッチングフォームも断然、美しく見えた)。

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しかし僕は故人を貶そうというのではない。僕は苦手とする星野仙一という男の生涯で手放しで好きなシーンが1つある。正確には2つだ。その1つをやはり海老沢泰久から引用する。1982年のシーズン終盤のことである。

ドラゴンズの選手たちは勝とうとして必死になっていた。彼らも野球がつらくなり、なにもかもほうりだしたくなったときがあったが、星野仙一がそれをくいとめた。ライオンズで森に対する不満が爆発したように、監督の近藤貞雄への不満がいっぱいになったのだった。そのとき星野は主力選手をみんな集めていった。

「おれがこのチームで優勝したのは8年前で28歳のときだった。そのときおれは、またすぐにあと一度や二度は優勝できるだろうと思った。しかし結局できないで8年たってしまったんだ。田尾だって若手といわれているが28じゃないか。いましておかなかったら、おまえらだってつぎはいつできるか分からんぞ。おまえらが監督をいやだというのは分る。おれだっていやだ。しかしおまえらは使ってもらえるだけ幸せじゃないか。おれは使ってもらえないんだぞ。そのおれが黙っているんだ。おまえらも何もいうな」

そして彼らは歯をくいしばって頑張った。キャッチャーの中尾孝義はバッターボックスにはいった相手チームの選手に、試合中ずっとこういいつづけた。

「打たんでください。お願いします」

(前掲書P.168)

若干の、星野の「くささ」、演技性がないわけではない。ただ、それがあったにせよ、その彼の性質が、チームのまとめ役としてここではいい方向に作用している。

星野はおそらく、逆境で「なにくそ」と思うところでこそ、持ち味を発揮するタイプだったのではなかったか。

(追記)実際、この年の星野は次第に登板機会を失くしていく。

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そのような、複雑と屈折を人間星野仙一に対し読み込む僕にとってすら、これはいいシーンだなと思った、忘れられない映像がある。先に2つと書いた、もうひとつのほうがこれだ。

2003年9月15日。18年ぶりのタイガース(フライング)優勝。さよならヒットを放った赤星をうれしそうに迎える選手たちを見守り、そして列の最後に赤星を抱擁する場面だ。

www.youtube.com

その、体育会/島岡的手法、「わいが育てた」、笑顔の目が笑っていない、計算高い云々、批判はあろうかと思う。球場のスタンドから、あるいはテレビのこちら側からそれらを論じるのは、さほど難しいことではない。殊にその鉄拳制裁の悪しき伝統は、追放されるべき時期がとっくに来ている。

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だが、ここまで記して、正直にいわねばならないことがあることにも、僕は気づいている。東海中京地区に生まれ育ち、1974年のドラゴンズ優勝、その前後の「闘将」星野仙一のマウンドさばきをこの目で見てしまっていたとしたら、きっと、違ったニュアンスのことを書いていただろう。ご冥福を祈りたい。

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(追記)id:watto さんからドラゴンズ初優勝について貴重なコメントをいただきました。初の字に取り消し線を。ありがとうございます。id:homare-temujin さん、先に倉敷を尋ねた折、星野仙一記念館の前を通ってきました。

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この写真の、対岸奥、くらいだったかな。

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センロックさん、今頃、島野修と「さすがのわいでもブレイビーはわいが育てとは言えん」と、天国で握手を交わしているだろうか。ブレイビーの話は山際淳司が割に好んで描いているので、また今度にでも。