実に深い感銘を受けた。
ココッチィさんのとこは食わず嫌いで見ずにいた。そっ閉じしたこともひとたびではない。すまない。だが今回の記事で印象ががらりと変わった。理由は大きく2つある。
- 自分以外のもののために戦っていること
- 戦いかたが極めて具体的であること
俺は改心して思い立ったらすぐに謝る性質(たち)なので頭を下げてきた。
@rico_lull あんた立派な人だ。それだけを言いに来た。
— nekohanahime (@nekohanahime) 2017年7月17日
これだけだと気障なおっさんで終わっちまう。また、俺の自己否定との戦いを前面に押し出して書くつもりもない。そんなのは読む人にはつまらねえからだ。代わりに、俺から具体的に2つ方法論を補いたい。@rico_lullさんのようなすばらしいパートナーが見つかりにくい人を意識している。
やさしいねこちゃんを受け入れ、好きな気持をその都度つぶやくこと。ねこちゃんとたくさんお話しすること
くーちゃんはおそうじしたことがわかります😺くーちゃん😺ちゅきちゅきー😺 pic.twitter.com/ey42cD4LAb
— nekohanahime (@nekohanahime) 2017年4月28日
俺は何をしていてもくーちゃんが好きなのである。くーちゃんのためにあと20年は部屋をきれいにして健康に生きるのである。
できれば暮らしている街を好きでありたい。散歩の際にはその気持ちを声に出したい
私はいま暮らしている船橋海神という街が好きで好きでその気持ちは歌を詠ってしまうくらいだ。
衣干すあしもとに寝子の歩み居りベランダに風の潮運びけり
— nekohanahime (@nekohanahime) 2017年7月3日
これも辞世にしよう。
むかし吉行淳之介という偉い助平な人が遅い作家デビューをした。
齢30を重ね、肋膜を患い、才能と不安との葛藤の中で吉行は水辺の街を歩く。そのようにして「原色の街」「驟雨」は生まれた。もちろん、できれば吉行自体を読んでほしい。だが、まずは村上春樹でもいい。「若い読者のための短編小説案内」の中で村上は、水辺を歩き、自分をどうにかして励まそうとする吉行に万感を込めて解題を行う。
引用は行わない。買って読むべきものだからだ。まったく損のない1冊といえる。
(私は、村上の作品の中で実は本書が一番の出来ではないかと心密かに思っているのだが、その理由の1つがこの吉行へのシンパシーである。)
話を戻して、俺は船橋の街を、水辺を歩くとき、ふと、そしてしみじみと、吉行のことを思うことがある。そして俺は「船橋はいい街だ」「なんていい街なんだ」とつぶやく。漏れることもあれば、意図して声に出すこともある。実際、これまでに住んだいくつもの街の中で、これほどまでに「自分を受け入れてくれていると感じさせてくれた」街は他になかった。
故郷を離れはした。だが、俺はこの街で暮らしている限り大丈夫だ。
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そうして、散策を終えると俺は部屋に戻り、「くーちゃんちゅきちゅきですよー」と柔らかい背を撫で、せっかくだからもったいないのでおすそ分けをしようと思い、世界に向かってつぶやくのである。
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とはいえ、もちろん、いまでも心療内科通いは欠かせない。
そのことは、ブロガー諸賢の「常識」からすると大いに投げやりな俺の人生態度として、まるで読まれたい気を感じさせないタイトル(と、文体)に象徴的に表れていると、我ながら思う。
けれど、繰り返しになるようだが、それと「だから生を断念する」は別のことだ。俺はタイトルどおり、くーちゃんのために船橋海神で生きているのである。
太宰も云っている。
(よよん君のことは「ために」というより「代わって」という感じだ。その話はまた別の機会にしたい。)
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改めて、いいものを読ませていただいた。@rico_lullさんには感謝を。