illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

H(1972-1992)君のこと

ちょうど、いまごろの季節だったと思う。神宮で六大学をやっていたから、5月中旬だったか。秋の六大学ではなかったと思う。遠い記憶。26年前。

教養課程はクラスがあって。50人だったかな。文3は男女比が3:2。その中に、H君という、背の高い、色白の、ひょろっとした、目の彫りの深い、ちょっと日本人離れした顔立ちのクラスメート。体育実技で一緒になった。

バスケをやっていたときだと思う。準備体操のときだったか。

「おれ、来週からもう来られないんだ」

それに、僕は何って返したんだろうね。「ひょえー」とか「うん」とか「どうしたの」とか。大学1年の初夏は、クラスの人間関係がだいぶ落ち着いてきて、友だちが、友だちらしくなってくるころ。そのときに、彼は僕を選んでくれた。ことばを選んで、彼の中で沈黙を重ねた後で、上澄みをふっと投げるように、ほかに、いいようがなかったのだろうと思う。

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クラスの友だちが、募金活動を始め出した。骨髄バンクへの登録を呼びかけ始めた。

僕は何か違うと思って。活動を否定するのじゃなくて、H君のあのときのことばに、何と返したのか、募金箱やビラを見てもそれすらはっきりしない自分がいやになって、ただやっぱり、募金やバンク登録ではいまからじゃもう間に合わないと判っていて、だから、せめてもと思ったのだろうか。黙って、僕は授業に出なくなった。一種の自罰、なのかな。

心配してくれたクラスメートからは、何度か電話をもらったのだけれど、出るのも何か気が引けて、億劫で、他にもいろいろとあって、僕は結局、駒場キャンパスというところに規定を1年オーバーした3年いた。僕がそこに無為な3年間を刻んでいた間に、H君が白血病で亡くなったことを、ずっとずっとずっと後になって、風の便りで知った。報せを受けたとき、(変ないいかただけれど)何だか(これくらい後になってからでよかった…)ほっとしたことを覚えている。

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よよん君の話を書き上げる最終の段階になって、いろんな昔のことを思い出した。不義理が多い。不義理には事欠かないタイプだから。当時のクラスメートとも、四半世紀以上も連絡をとっていない。大方誰しもそうだとは思うものの。しかし、僕はH君のお墓参りに行って彼と話がしたいと思って、そして、当時のクラスメートに、細い糸を辿るようにして、いま連絡を試みている。