以前に、再受験生氏(id:hurends)と土曜日の猫(id:LeChatduSamedi)さんから宿題をいただいていた。
@lechatdulundi
— 再受験生氏 (@GHMFrZfQYtYhVnr) 2017年5月19日
物理学は(万有引力を発見した際のような思考実験も含めて)自然に働きかけその結果を考察することで発展してきたと思うのですが、日本だとそういった営みは無かったのでしょうか。
きゃー。
まず「物」「理」「学」について
中国哲学を齧ったニンゲンにとって物理ときいて真っ先に思い浮かぶのは格物致知である。
ひっじょーうに奥が深いので、かいつまんでいえば、格物致知とは(俺は朱熹を重んじつつどちらかといえば陽明側であるので陽明の立場に倣えば)「内省によって認識の歪みを正し」「物の理(もののことはり)に至り」「よって聖人に至る道」である。よーく考えて、ものごとの仕組みを極めて、何を見ても見えちゃって、だれが見てもこの人は大丈夫だという落ち着き(聖人)に達すること。いやあ、袋叩きにあうで、この「かいつまみ」。
でも、そうなんだよ。つらい。
で、中国の近代思惟において、近代科学の根本原則の1つである「実験」「観察」「再現」「反証可能性」は、西洋のそれのようなあり方としては、あまり問われない/なかった。
いやあ、(以下略)、でも(以下略)。
だれもわかんないんだってば。とりま、2冊お勧めする。
上下巻。読めとはいえない。ハードです。でも、通らないわけにはいかない。名著だと思う。
この朝日文庫は、読後の満足度が高い。あらためてだけど、島田虔次さん(さんとかいっていいのか俺!)は、すごいね。学識、文体、先見性。なぜ「中国哲学を齧ったニンゲンにとって物理ときいて真っ先に思い浮かぶのは格物致知」なのかが、なんとなく感じ取ってくれるのではないかと思う。こっちは、一般の人でも、古本屋で見かけたら、試しに読んでみていい。僕は大好きで、いまでも読むよ。
ひとまずいえるのは、
- 内省
- 属人性(人格の陶冶)
に向かう傾向はあるんじゃないかってことです。
そしてその影響を、近世日本も受けている。
蘭方/漢方/中国医学
再受験生氏のそもそもの関心と今回の問題意識は、医学分野にあったと聞いている。大まかな見取り図を描くね。これ自体がけっこう重要で、知られていない感じがするから。
- 蘭方:17世紀後半くらいから、長崎商館、杉田玄白/宇田川玄随/華岡青洲/メーデルフォールトに行く流れね。ターヘル・アナトミア/解体新書が西洋風の解剖学的基礎を与えたというのは今回のお題でいえば非常に重要なことと思うね。
- 漢方:5世紀くらいに渡来人から伝わってきて、中国医学とは別に、日本で発展を遂げた医の体系のこと。「証」を観察することによる対処療法が特徴の1つと思う。
- 中国医学:紀元前2世紀ごろの「黄帝内経」や、紀元1世紀ごろの「傷寒論」あるいは中世では「本草綱目」あたりを典拠とする。根本に近いところに、陰陽思想がある。ちなみに1950-60年代に毛沢東の指示で集大成が図られた。
元のお題に戻ると、「自然に働きかけその結果を考察する」営みは、蘭方/漢方/中国医学いずれでもきっとあったよね。でも、なんとなくこの中では蘭方だけが西洋医学っぽいよね。なんでかな?
また、その反対側からの話として、僕は、ある種の中国的思惟(人格の陶冶に向かわざるを得ない経典主義、のようなもの)から、医が独立し切れなかった(僕が大学で習ったある先生は、「へその緒がずっとついている状態」と形容していた)のではないかという印象を持つ。のだけれど、ただ、話が大きすぎてこれ以上はとても書けない。
日本漢語の影響
とはいえ、ことばが認識に影響を及ぼす/規定する。その側面から、示唆に富む話をすることはできる。
1つは、杉田玄白の解体新書は、日本人による漢文訳だって点。それも、後に弟子の大槻玄沢が直している(1810-1826ごろ)ように、そして玄白自身が認めているように(僕はこの玄白先生の率直さが好きだ)、誤訳だらけだったという。
誤訳は、まあ仕方ない。それこそ、「実験」「観察」「再現」「反証可能性」野菜瞑想運動喝! で、時代とともに直っていく。ただ、その認識論的基礎を与えた漢語は(正しい訳であったとしても)問い直しは必要だろう。たとえば、「五臓六腑」って何?
以上は、中国語→日本漢語→オランダ語の漢/和訳、という影響の話。
次に、事情を複雑にするのが、これもあまり(その筋以外には)知られていないんだけど、日本漢語が近代に中国に再輸出される点。
その前に
近代史研究/専攻者の間にはちょっとしたジョークがあって、英語やドイツ語、オランダ語に近代的な二字熟語を当てたのは誰? って話があり、知らなくてもまあだいたい「西周/福沢諭吉/森鴎外/徳富蘇峰」って答えておけば当たってる。
だがね、彼らはその熟語をどこから引っ張ってきたの?
日本漢語の中国への輸出
アヘン戦争に相前後して、まあ、前後というかアヘン戦争ショックだから専ら「後」なんだけど、中華(あえて国家とは書かないよ)存亡の危機というので、中国の知識人が約半世紀にわたって(1840-1900)震え上がる。
その代表格のひとりが厳復(1854-1921)。厳復いいよ厳復。大好き。その事績はウィキペディアを読んでくれればいい。興味をもってくれたら、これまた大変にハードなんだけど、以下を。名著中の名著。
今回のお題でいえば、厳復は医者の家系に生まれる。ただまあ知的エリートのだれしもがそうであったように、いきなり医学には行かない。士大夫(科挙)を目指す。そしてこれもだれもがそうであるようになかなか受からない。結局断念して、西洋科学や政治社会学に転向する。日清戦争(1894)に負けていよいよまずいっていうので、まあ、ハードな論考を発表するする。彼なんかは、福州の人で海が近いし、おそらく日本から禁書の網をかいくぐって和訳された西洋思想書を手に入れて、日本漢語に触れていたはず。
もうひとりいる。梁啓超(1873-1929)。
厳復の次の世代。日本大好きで、亡命もしてる。横浜中華街に暮らしてたこともある。日本語もやり、日本漢語もばりばり吸収して、ジャーナリスティックに、いまのことばでいうエバンジェリスト的に、精力的に執筆活動を行う。医学が含まれたかどうかははっきり覚えていないけれど、やはりその認識には深いところで日本漢語があった、あるいは伝統中国のボキャブラリーと日本漢語の間で、葛藤があったはずだ。
余談1
このように、この話は面白く、難しい。まとめの代わりに、中国側から1点余談を。
彭文祖という人がいる。研究者以外には知られていない。ただ彼は非常に面白くて、日本漢語(和製漢語)が大嫌いなんだ。ウィキペディアから引用する。
これらを含む相当の語彙(ウィキペディアには59個とある)を彼は大正年間(1915頃)に「きちがいざただ」みたいに罵るのね。いくつかは、福沢が作ったものだよね、これ。
でも、いやあ、わかるなあ、これ。同情を禁じ得ない。
この中では「衛生」なんてのは、医療にも隣接する概念用語として、研究対象として取り上げるのには面白いかもしれない。衛青霍去病(なんのこっちゃ)。
余談2
そして、日本側からも余談を。
近代翻訳語について、今回の記事でなるほどおもしろい、もうちょっと入りやすい(ように見える)本で何かないのという声にお応えするために、以下、リンクを貼る。概ねおすすめ順である。
柳父章先生はこの話の流れでは欠かせまい。
丸山真男先生のこれも。Amazonではなぜか下巻が引っかかるんだけど、(上)(中)(下)ある。もちろん(上)から読んでちょうだい。
そして、田中克彦さんの本書。
なんだか岩波知識人みたいでやだな…(´;ω;`)
追伸
漢方の「方」ってなんだろうね。公事方御定書の「方」(かた)が熟語になって「ポウ」になったものかな。つまり近世にありがちな(また適当なことをゆった)地位役職(であること)と働き(すること)が渾然一体となったものをお上から頂戴してありがたがるという例のあれ的な。
おあとがよろしくないようで。(´;ω;`)
保本登は、長崎遊学から小石川に(不承不承)戻る。長崎で蘭方ったら当時のエリートコースだ。それが小石川で下働き。恋にも破れて。そんな筋書きを、周五郎はよく思いついたよね。
追々伸
佐久間象山。書き終えて思い出した。
丸山先生も何かの論考で評価していたけれど、再受験生氏のそもそものお題からすると、佐久間はかなりいい線いってると思う。ウィキペディアの以下の箇所は、「鬼神」「聖学」世界から、「実理」(一種の中体西用)を経て、近代兵学/物理学/医学への転換を示す、さりげない、見事な箇所のように思える。
学問に対する態度は、小林虎三郎へ送った次の文書からも窺うことができる。
宇宙に実理は二つなし。この理あるところ、天地もこれに異なる能わず。鬼神もこれに異なる能わず。百世の聖人もこれに異なる能わず。近来西洋人の発明する所の許多の学術は、要するに皆実理にして、まさに以って我が聖学を資くる足る。
しかし真理に忠実であろうとする象山の態度は、当時の体制及び規範から見れば誤解を受ける要因ともなった。
象山は大砲の鋳造に成功し西洋砲術家としての名声を轟かすと、蘭学を背景に、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していたという。嘉永4年(1851年)には、再び江戸に移住して木挽町に「五月塾」を開き、砲術・兵学を教えた。ここに勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬ら後の俊才が続々と入門している。
佐久間から少し遡って、いくつかの元素にいまあるような熟語を当てた宇田川榕菴も、大変に魅力的だ。
むつかしいね、このお題。でも、楽しかったw