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illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

落穂拾い

ちょっと反省。悲しみ本線日本海のほうに向きすぎたので。

dk4130523.hatenablog.com

ほんとは、現場で格闘している人に対して何かもの申すのは好みではなく、しかしそのような理由はどうあれ「結果的」出し惜しみがおれはよくないなあなんて思い。

落穂拾い、しゅる。

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File:Jean-François Millet - Gleaners - Google Art Project 2.jpg - Wikimedia Commons

その子のいいところをほめる「方法」

勉強を教える-教わる関係の中でほめるべき切り口が見つからないような場合でも、たくさん話をしているうちに、たとえば学校の部活動や、地元のコミュニティでの活動など、何らかのその子の「ここをほめれば響くんじゃね?」「先生ほめて!」みたいなキーワード、サインが見つかることがある。

これはあるんじゃないかな。だってそういう子って隙あらば目の前の勉強=課題から離れたくてしょうがないから。ちょいちょい雑談を挟んでくる。ひとこま60分? 80分? のなかで、いいんじゃない? 10分くらいは小休止を挟んでそういう話しても。

それで、小見出しに「方法」って括弧書きにしたのは、ことばでほめるのは二の矢三の矢、まず、ことばじゃないんだぜってこと。「ことばと行動とどちらを信用しますか」「はーい先生行動です!」ってよくやるでしょ。でも教える現場だと手枷足枷が多くてなかなかできない。

おれてきな経験から、効果的なのは、その子の見てほしい活動にお忍びで、出向く。お祭りで太鼓叩くソーラン節やるっていったら、足を運ぶ。吹奏楽のコンテストがあるって話てたら、花束もって、行く。大変だけどね。見なきゃわかんないし、見たら見たでやっぱり「おおー」って思うのよ。

その子のいいところをほめる「方法」の下準備

クラス授業なら、たとえば20人クラスなら、まあだれかしら、相互の人間関係のなかで「だれ君だれちゃんはxxがすごいんだよ」みたいにいってくれる級友がいる。1人か2人は、それでもどうしても浮いちゃうのがいる。それはとりあえず、しゃあない(ただし後述)。もし、お祭りやコンテストに行けなくても、クラス授業なら、順繰りに、あるいは話題に出たタイミングで都度ほめればいい。「おおーすげー」とかいって。

実際、すごい。中2中3くらいになるとおっさんじゃ50m走ぜったい負ける。勉強では目立たなくても中体連で勝ち残る子とか、芸能プロダクションに入ってる子とか、いる。いた。一方では、受験勉強を相対化したなれの果てがおれだからね、本気で感銘うけるのよ。

ただし問題もある

ここ5年10年トレンドの個別指導、少人数指導。あれは僕は反対派です。人数減らしたってその分できるようにさせられないって。たまに、ハマってうまくいく生徒はいる。ただ基本的には、錯覚。学習塾予備校側の売り文句にすぎない。20人から25人が適正だよ。おれの場合は。2人3人でぴしっと緊張感もたせるのはかえってよほどの力量が必要。見習い講師のうちは15人18人が適正だっておれはよく主張してた。全体が盛り上がる、その盛り上がりに引きずられる子、それを周りがフォローする効果、いろんな相乗効果が適正人数クラスにはある。年間通じた、そのダイナミズムが醍醐味なわけで。

実効性のほかにも、問題がある。それは、集団の中で吸収される複雑な生徒どうしの人間関係、その一方で見えてくる/(生徒自身が)気づいてくる長所、そのキーワードの萌芽が、なかなか捉えにくい。

特に、上で後述と記した、クラス20人の中の浮いちゃった1人2人が、クラス授業では煮ても焼いても食えなくて、個別少人数に流れてくるという図式がある。もしそうだとしたら、子供は自分がお払い箱になったという認識はあるからね。

話かわるけど、捨て猫。あるいはシェルターや譲渡会を転々としたり出戻りになったりする猫ちゃんがいてる。彼ら彼女たちは傷つくんだよ。おれも初めは「まさか」と思ったさ。でも、猫は、ちゃーんと、自分がされた仕打ちを理解して、傷ついている。

猫は知っていた(仁木悦子)。

猫は知っていた (講談社文庫 に 2-1)

猫は知っていた (講談社文庫 に 2-1)

 

猫は動物だから、子供は可塑性に富むから。うそいってんじゃねえ。いいおっさんおねえちゃんが傷引きずってめそめそしてんじゃねえか。

ほかにも問題がある

私的チャネルをどう作るか。平たくいうと、LINE、Facebookは論外として(ほんとに論外なのか?)、メールアドレスくらい、コミュニケーションに難のある生徒なら、なんとかして知って/聞き出して/交換して、話をしてみたいよね。

20年前なら、ちょうど国内インターネットの勃興期だったから、国語なり公民なりで、インターネットやメール配信の仕組みをレクチャーする中で、間違えたふりをして、自分のアドレスを板書しちゃう。なしなんだけど、ありっちゃありだった。でもそんなこといまやったら大目玉食らうでしょう。

個別少人数指導だからそういう私的情報網の交換ができるかというと、そうでもない。むしろいろいろと仕組みや監視が厳しい。自由度が低い。当然だし、多くは、何もそこまで(私的チャネルに訴えかけるまで)しなくても、そこそこ勉強はやらせられる。

ただねえ、いいんじゃないのという気はする。だって子供は目の前の大人の一挙手一投足、これまでの人生、これからの可能性、ロールモデルとして講師を見るわけよ。見られてんだってば。そんときに跳ね除ける説明原理が「決まりだから」だけじゃ、もう次からおれなら来たくないよ。

子供は自分に都合のいいメッセージ部分だけを頭に残す

「ごめんね、決まりなんだ。ほんとはお話したいんだけど、どうしたらいいかな」っていって、子供に「ごめんね」と「お話したい」だけを残してやる、みたいなのがコツといえばコツ。都合よく解釈して紙切れに謎の文字列書いて渡してくれるようになればしめたもの。教務主任に「こんなのくれたのでよく注意しました。廃棄します」と報告してシュレッダーにかけて、でも謎の文字列は頭に刻み込む。もしくはトイレで携帯に転記する。まあでもいまは授業時間や休み時間のやりとりすら、録画録音されるからね。安い時給でそこまでやるかというのも、またなんじゃらほい。

まとめ

ないですよ、ない。もうしわけない。

だいたいだね、猫日記さん(id:LeChatduSamedi)は、日々刻々(やや誤用)、こんなことは考えて現場で立ち向かったりかわしたりしてるんだと思う。だから、アドバイス(おえー。※個人の感想です)じゃなくて、自分が前の日に書いたことへの、拾遺。

ただ、教える-教えられるという関係の非対象性(これは若き柄谷行人の慧眼)を、よほど考えて、いろんなテクニック、小手先のものがほとんどかもしれないけど、が身にしみたのは、よかったと思う。おれは自分の財産だな。キャバクラで金を払って寄席をやる(575)。知的労働者は、自分のノートと、失敗の記録を、現場と後生畏るべしに残すことが最低限の倫理ではないかしらん。

まいったね。またいずれ、ほとぼりがさめたころに。