まだ今週いっぱいは彼岸だというのでじいさんの話をする。
おふくろの話はまだできない。あと10年くらいかかるだろうな。
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将棋の好きな人だった。かなりの筋金が入っていた。加藤治郎「将棋は歩から」を愛読し、縁側で並べ、加藤が表舞台に立たなくなってからは、原田泰夫の人柄と気風/棋風を好んだ。
将棋の好きな方にはこれで何となくご理解いただけようと思うが、攻めっ気が強い。矢倉を組み、中盤には角頭に歩の叩きを入れ、終盤の入り口で思い切りのいい大駒捌きをみせる。
やられたと思う。
しかし爺さん、一手違いで俺が勝つように指してくれるのだ。そうして爺さん負けると「やられた。もう一番だけ指そうか」とうれしそうに水を向けてくる。
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肺の病と、あちこちに戦争でもらってきた後遺症があるから、本当は、長い時間、根を詰めるのはいけない。かかりつけの「ほうちゃん」(ばあさんの同級生。地元で開業医をやっていた宝作先生。注射だけは名人と地元で評判だった)から、「ほどほどにしてくださいよ」なんて釘を刺されていた。それだって、もともとが任侠のような人だから、節制はするものの、遊び心がうずうずすると、どこ吹く風。
(うちのじいさん、面影が田村隆一によく似ていた。)
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春の、秋の、風が心地よくなる季節には、縁側までグレープルーツを持ってきて、器用に剥いてお盆に広げたのち、「ちょっと孫に揉んでもらえないかな」なんていいだす。俺は俺で心得ているから(ほんとはむしろ俺のほうがお声かかりを待っている)、お茶を入れ、立派な脚のついた将棋盤と、駒を運び出してくる。
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その様子を、庭仕事のかたわら、ひといきつきながら、ばあさんがにこにこと眺めている。サツマイモが、キウイが、桃が、梨が、マスカットが、ハニーバンタムが、中終盤のいい頃合いになると、お盆にのってやってくる。
35年前。実に、あのころの人生はわれながらよくできていた。
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叱られた記憶はほとんどない。(ちなみにばあさんにはただのいちどもない。)5番指すと、3-2と4-1の間くらいで、俺に花を持たせながら双方気分がよくなるように、技を繰り出してくれた。
その甲斐あってか、俺は長く、ここ一番でいまひとつ詰めが甘いと人からいわれてきた。5回に3回勝てば番付を維持、それで御の字と、そう思ってしまうところがある。ビジネスはそれではいかんのだ。5回戦って勝ち、6回目の勝利の手がかりを握っておかねばならない。じつに世知辛い。退屈である。
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ここ数日で、読者になってくださった方がいらっしゃる。ありがたい。はてな村には「ぐだぐだ」といいながら切っ先を突き付けてくる、もろ肌脱いだ餡子問屋みたいな名前の有名なおねえちゃんがいるが(ほんとにあのひとが苦手なんだ)、俺のはほんとうのぐだぐだである。5番のうち、1番くらい、切れ味をちらつかせるくらいでちょうどいいのではないかと、思う。
次の世代の人のために、一手違いの片八百長ができるとするならば、相当の力量であろう。体力体調と相談しながら、もう一番が指せるくらいに残し、攻め込んで、花を持たせる。じいさんの生涯には、どこかそんな美学のようなものがあった。
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そんなわけで、過去に書いてわれながらなかなかよくかけたとおもう将棋を題材にとった拙文のリンクを貼る。あらためて、自己紹介にかえさせていただければと、願っている。
(明日の午後のフライトで、羽田に戻ります。おかげさまで今回の旅の目的であった商談は、首尾よくまとめることができました。)
(追伸)
そうそう、この話を構想していた時点では、「わたしのグランパ」の話をしようと思っていたのだった。
正真正銘、わたしのグランパである。何のこっちゃ。