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illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「夢のあとさき」という呪いをかけてあげる

ちあきなおみを聞いていたら、森田公一とトップギャランがリコメンドに出ていた。YouTubeはなかなかよくできている。


森田 公一とトップギャラン - 青春時代

みなさんにとってドヤ顔といったらだれであろうか。(いや、マジでだれなんだいまの時代は。)僕にとっては1977年のこの人、森田公一である。子供心に思ったのは、これは悪い田中星司だということだった。当時4歳。俺の早熟の早見えの才能は、そのころから発揮されていた。んなわけない。

森田公一さんには大変もうしわけないんだけどね、ワルいよ、これ。いまから、ちょっとだけ論証するね。

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青春時代を歌った歌じゃんかって?、これ。森田公一は、では24歳くらい? ノウ。1940年生まれの当時37歳。おいおい。では、作詞を担当した瀬戸内少年野球団阿久悠)は、まあ29歳くらい? ノウ。1937年生まれの当時39歳。

というわけで、よくいわれる「青春時代の心情を巧みに表現した」は、間違いではないのだけれど、そんなに単純なものじゃない。俺はせっかちなので早速に結論を記すと(いつもの悪い癖だw)、これは青春時代をまんまとのりきったおっさんの凱歌です。

おい待てよ「卒業までの半年で/答えを出すというけれど」って大学4年生の夏の話だろう? 青春時代のど真ん中じゃないかと諸賢は問われるかもしれない。ノウ。あの部分は回想シーンです。青春時代の真ん中で道に迷っているばかりのときに、「青春時代の/真ん中は/胸に棘さす/ことばかり」などと七五調で韻を踏んで悠長に歌ってなど、いられまい。

「青春時代の/真ん中は/道に迷って/いるばかり/(だったなあ、おい)」この詠嘆が隠されている、隠して詠み込む技を、森田公一とその悪友(瀬戸内少年野球団阿久悠))は、まあこんな感じで二重か三重のカッコを衣にしてからっと塩味で揚げるところまで、15年をかけて昇華した。そのドヤ顔だ。俺はそう思う。証拠に、トップギャランのみなさんの表情の晴れがましいこと。後からほのぼのおもってる感が、漂いまくり。

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深田弘之(阿久悠)には、その後も長い葛藤の時期が続いたんだけどね。ようやく7合目の展望台で一息ついた、くらいの感じが伝わってくる。

話が長くなったから、間奏を入れようか。

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思うのは、最近の、大学デビューの活動家のみなさんのことです。共産党系とか、中核、核マル、ブント(さすがにこれはもういないのか)、ブログカレッジのみなさん。

みんな一緒。モラトリアムは、基本的に大学2年まででおしまい。あとは資本主義的兵役に出るしかない。SEALDsも、イケダハヤトも、八木仁平も、遅れてきた青春時代の真ん中にいると当人たちは思っていることだろう。だが、その青春時代に終わりは来るのか? これだけ実名と顔写真と、未熟な反体制論と、反会社論と、体制の補完物として振る舞うほかにない道化師の姿を、証拠を、世界中から検索可能な形で半永久的に残す君たちのことを、まっとうな会社人事は見ないふりをして通り過ぎる。

就職、しないんだろう? というか、もう、かなり難しい。せっかくの早稲田を棒に振るのか。この先、ずっと道に迷って、胸に棘さすことばかりってこと? 歌を歌う日は来てくれないんだぜ。俺にように、こうしてドヤ顔のおっさんになる日は、来ないんだ。

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物書きなんて、そんなに甘いものじゃないよ。阿久悠ほどの才能だって、晩年まで、ずっとあがき続けている。俺だってそうさ。壁際に、寝返りをうちながら、俺は阿久悠の見苦しさ、暑苦しさと、それを覆い隠そうとするダンディズムに、サービス精神に、最大の敬意を払う。

 

不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む

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作詞入門―阿久式ヒット・ソングの技法 (岩波現代文庫)

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夢を食った男たち―「スター誕生」と黄金の70年代 (道草文庫)

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Twitterで、ねこちゃんアカウントのまま、ブロガー連中の何人かを、からかってみた。からかうふりをして、忠告するという老害の役回りを演じてみた。暇だったからである。

すると、即ブロックする者(八木仁平、りゅうけん)、しびれを切らしてブロックする者(るってぃ)、いいねをしてくれた人(たばたあいちゃん)、返信をしてくれて今度飯を食いにいこうという話になった子(しゅあん君)、おもしろかった。くーちゃんごめんなさいw わるいのは、中の俺です。

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素人の三文文士ともよべないような代物が、プロのライターを名乗る。芥川のころから、たまに見られた光景です。そもそも、ものを書くという行為は、だれでもできる。そこに価値はない。そのとき、道は、二つにわかれる。

  • ようやく、書くという行為に民主化が訪れた。みんなが書けるってことは、もっと練習しなきゃ。中身を、ネタを、練りこまなくては。
  • 名前を売れば勝ちってことか。技量に差がつかないということは、別のところで差異化を図ればいい。

丸山真男先生が、かつて「『である』ことと『する』こと」といういまや有名なエッセイを著していらっしゃる。権利の上に眠る者批判が骨子なのだけれど、俺は裏側からも読んでいる。

日本の思想 (岩波新書)

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「ライターである」ことと、「書くという行いをする」こと。ライター(それもプロの)であることの上に眠れるまでになるには、少なくともその水準まで、書き続けなければならない。原理的にはね。秋元康の、だからはがき職人時代だけは、俺は評価する。「ドラマティック・レイン」までだな。

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82年のこの曲までは、秋元はかろうじて阿久悠的なものの延長上にいた。歌詞が、音節が(そりゃ阿久悠の足元にも及ばないが)練りこまれている。うそじゃないぜ。「卒業までの半年で」と「クリスマスキャロルまでに」答えを出す男女の姿かたちは、相似形といわずしてこれを何と呼ぶ。(ドヤw)

秋元がだめになったのは、ごぞんじ教団「おニャン子クラブ」を結成して集金システムに目覚めてしまって(1985)からだ。秋元なら、まあはてなブログを開設することはあるまい。それが、文章の、詩の一篇すらまともに記すことができずに、集金システムに目覚めた匂いをぷんぷんさせた二十歳やそこらが土足で上がり込んできたら、そりゃ周りのまともな大人たちの琴線を棒でごしごしこするようなものだ。なぜそれに気づかない。イケハヤは、わかってやっている。八木仁平は、おそらく、後から気づいた。認めたくない。その違いは、思いのほか、大きい。

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ケンカを売るつもりも、議論するつもりもない。その証拠にブロガー諸君にはリンクを貼っていない。本当は、教え諭すことになってしまうので、この記事も書くまでにはずいぶん躊躇いがあった。しかし、と俺は気づいた。彼らなら、俺のことを「老害」とレッテルを貼って済ましてくれるだろう。読まないだろうな。話長いし、ウザいし、下手だし(笑)。

だが、そのとき、俺は満面の森田公一スマイルを浮かべることだろう。大人というのは、そういうものである。噺が長くなったついでに、顔を上げてダメ押しに、タイトルを読み返してくだされば幸いだ。

www.meadameada.net

くそーw 買ってしまう。買ったら負けだ。買う。

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ちなみに、これがほんとの、「夢のあとさき」。

かなわぬ夢と/知りながら/三度(みたび)会いたき/赤とんぼかな。

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書くことは、売名の道具じゃないよ。

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祈りです。届かない、願いのこと。

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(追伸)

「夢のあとさき」という呪いをかけてあげる - illegal function call in 1980s

言及ありがとうございます。 ぜひ買うのを思いとどまって下さい

2016/09/03 22:59

b.hatena.ne.jp

優れた才能の無駄遣いをしている若者に諭されてしまった。くっそーw 買う。

(追々伸)

思いとどまることができませんでした。反省しています。(主の首のずれたマグカップ2個)