きょうは記事を2本、書こうと思う。2本ともオリンピック関連の話である。時流に乗りたいのではない。そんな気は、はなから、さらさらない。俺の読みたい話を、ほとんど誰も書いていないようなので仕方なく書く。
ちなみに、Numberは清原を表紙に飾ったとかで得意げなようであるが腹を切ればいい。86年の清原特集は岡崎満義と山際淳司の仕事であり、今回の特集もその後日談にすぎない。まったく安直な方法を見つけたものだ。
読むならこっちである。
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さて、まず1本めがこれ。猫田勝敏の話。
若い人は知らないだろう。俺(73年生まれ)も、ほとんど覚えていない。64年から80年まで活躍した名セッター。世界に猫田ありといわれた広島の列伝中の人物だ。いまから33年前、1983年11月29日に猫田の未亡人、礼子はいう。
「この試合はぜったいに勝たなくてはいけないんだと、主人はずっといいつづけていたんです。オリンピックに出場するための最後の関門だということは、私にもわかっていました……」
(「すまん!」P.123 山際淳司『バットマンに栄光を』角川文庫所収)
この試合とは、ロス五輪への出場権を賭けた男子バレーのアジア選手権決勝リーグ、日本対韓国戦のことである。正確には、その次の中国戦に勝利を収めてロス行きを決めるのだが、日韓戦が鍵であったことに変わりはない。
猫田は9月4日に胃がんのために他界していた。享年39。生きていれば当然、指導者的な立場で東京体育館に姿をみせていたはずである。
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猫田は、すごい選手だったらしい。(それをいったら松平も南も、なのだが。)トスがとにかく正確無比。64年から80年まで、全日本のセッターを務めてきた。それがどんなに難しいことだったか、山際さんは次のように表している。
猫田自身が公言することは少なかったが、かつての日本男子バレーボールチームのサインをすべてわかっているのは猫田一人だったのではないだろうか。
「全日本チーム用のサインはなかったんだ」
と、猫田が重い口を開いたことがある。彼がそんなことをいうのはとても珍しいことだった。どういうことかとたずねると、彼はおよそ次のようなことをいった。
全日本の選手は、国際試合を離れればそれぞれ自分のチームに帰っていく。あるいは日本鋼管へ、あるいは新日鉄へ……。それぞれのチームに、そのチームなりのサインがある。(中略)
全日本チーム用のサインを作っていないから、それぞれ自分のチームで用いているサインを出す。セッターの猫田は、アタッカーが出すそのサインを自分の頭のなかで解読する。例えば、日本鋼管出身のこの選手が出すこのサインはこういうことを意味しているな、と。セッター猫田はそれを解読し、中継するのだ。
そういうコンビネーションがうまくいったとき、猫田はおそらく一人、深い満足感を味わえたのではないだろうか。
(前掲書P.145-146)
彼は、声をあらげて怒ることがなかった。おそらく一度もなかっただろう。
アタッカーは、そのポジションに似て攻撃的な性格を持った選手が多い。試合の流れのなかで、思わず興奮してしまうこともある。
「あんなトス、打てるかよ!」
「もっと右ですよ、右!」
野太い声が腹の底から出てしまうこともある。
猫田から見れば、はるかに若い選手たちである。そこで猫田は怒鳴りかえしてもいい。ふざけるな、と。おれのトス・ワークがどれだけ完璧か知らんのか、と。全日本で17年間、おれを抜くやつはいなかったんだ、と。
しかし、猫田はそうはしなかった。
彼がいうのは、ただ一言だ。
「すまん!」
(前掲書P.148-149)
70年代の世界のバレーボールの潮流は、選手の大型化、スピードアップ、空中戦に向かっていった。セッターもまた、その流れにのみこまれざるを得ない。サービン、シリイエ、金浩哲……。猫田の「バレー道」「セッター道」ともいうべき職人技が、やがて肩身の狭い思いをし始めるのもまた、ひとつの必然だったのかもしれない。
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しかし、と思う。本当に、そうだったろうか。楔を打ち込む方法が、あったのではないか。
同時期に活躍した盟友の大古誠司(元全日本男子監督)は、猫田の没後に次のように語ったといわれる。
「全盛期、全日本が負けると『セッターの猫田の責任だ』とマスコミに叩かれ、大勝すると『攻撃陣大活躍』と言う活字が新聞に踊ったが、当時のメンバーだけは知っている。負けたのは全部アタッカーのミスで、勝った試合は全部猫田のトスのおかげだ」
猫田の名誉に泥を塗りかねないので、マスコミ批判はしない。大古は、実は現役時代に猫田とバレーボールの方向性について正面からずいぶんと思い切った議論をしている。山際さんが、「すまん!」に、そう書き記している。
大古は、知っていた。十分に、わかっていたのだと思う。
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スポーツ選手が「すまない」というとしたら、それはどのような条件のときだろうか。だれに対していうことだろうか。
吉田沙保里のことが気になって、きのうきょうと、「オリンピック憲章」とクーベルタンの伝記および回想記を読み返していた。
クーベルタンのオリンピズムの思想は教育改革のための梃だったとかいろいろといわれるが、少なくとも、「主将が国家や国民の期待に反して金メダルを取れなかっ場合には、謝意を表明しなければならない」という文言、精神は、どこにも見当たらなかった。むしろ、正反対のことが記されていたように思う。
(追伸)JOCは、こんなウェブサイトに金を遣うなら、ほかにやることがある。
一つだけ、書き添えておくことがある。
80年の6月17日、猫田勝敏は「バレーボール栄誉選手賞」の表彰を受けた。
この章は猫田以後、まだ一人も受賞者がいない。
(前掲書P.152。いかにも山際さんらしい、結びの効いた1文だと思う)